今月の宣長さん
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のどかな新春、道を行き交う車の音さえ今朝は心なしかのんびりと聞こえてくる。
これは京都に滞在する長男春庭(健亭)に宛てた宣長の賀状です。寛政8年(1796)年、宣長67歳、春庭34歳の春です。 〈読み下し〉今回は省略していますが、この決まり文句の挨拶のあとに、「尚々」として、今年は例年に比べて暖かいねとか近況報告が記されます。 日付を見ていただくと分かるように、賀状は三が日の行事を終えたあとに少しずつ書かれていったようです。 ![]() ◇宣長さんのお正月 まだ若い頃に、宣長は年中行事を定めています。その正月部分は、 >>「正月の行事」 をごらん下さい。 ところが、町役を務めたり、また紀州徳川家に仕官してからは、ずいぶん様変わりします。役所や役人宅への挨拶回りが加わるのです。 まず、33歳、宝暦12年正月を見てみましょう。 「二日、晴曇天○早朝御役所礼、但シ去年御町奉行役替、未有跡役、故参小笠原治右衛門殿役所、是御両役而、替目之間、御町奉行兼帯也、其後屋敷町礼」この頃、宣長さんは魚町の寄合組頭と言うような役をしていた推定されます。(吉田悦之「松坂と宣長」『須受能屋』6号) 次に、64歳、寛政5年正月元旦です。この前年12月3日、紀州徳川家に仕官が決まり、正月も俄然忙しくなります。 「朝六時、御両役月番方【夏目治右衛門】礼、次同役【花房庄兵衛】屋敷礼、右両役所ハ支配故、先相勤、次御城代礼、其外屋敷礼」 ![]() ◇元日の朝 仕官後の宣長さんの正月の様子を『日記』に見てみましょう。 宝暦12年 朝六時は、今の6時をまわった頃、五ツ半は9時くらいでしょうか。 「朝七ツ半頃神々蔵々鏡餅備江、夫より家内鏡餅相済、六ツ半過奉行所御月番御玄関罷出祝儀可申上候、夫より御城代江玄関江罷出候、別ニ御礼申上候事・・」(天保12年)とあり、その後、殿町の役人宅への挨拶回りとなります。七ツ半というと5時で しょうか。当時の人は、このころから行動を開始したようです。 ![]() ◇新書斎で春を迎える 天明3年(54歳)は特別の春でした。 前年12月上旬に新書斎「鈴屋」が完成したのです。窓から朝日がのぼるのを見て歌を詠みました。 「こぞの冬高き屋を構へたるむつきの朔日の朝東おもてなる窓をひらき見てよめる あたらしき ひかりまちとる 杉の戸も あひにあひたる 初春の空 」 東の窓は、床の間脇の小さな明かり取りの窓です。「宣長の仕事場」のページで場所をご確認下さい。 >> 「宣長の仕事場」 ![]() ◇特別な正月 旅先での正月の様子は「200年前のお正月」をごらん下さい。 >> 「200年前のお正月」 ![]() ◇正月も働く 年始挨拶もそこそこに、宣長さんは患者の診察をしています。 寛政5年(64歳)正月元旦、朝六時から御両役月番方夏目治右衛門殿、次に同役花房庄兵衛殿の屋敷に礼に行き、次に御城代、またその外の屋敷礼を済ませたあと、宣長は十徳に着替えて医療活動開始です。この日に診察したのは、かめや佐五兵衛他4名。中には、田丸屋十介(稲懸茂穂・後の本居大平)、津島屋彦一(竹内元之)と、大事の門人もいました。 >> 「元日診察」 >> 「医者としての宣長」 >> 「稲懸茂穂」 >> 「本居大平」 >> 「竹内元之」 ![]() |
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