2012年6月、浜田市で開催された、
「石見国浜田と本居宣長〜駅鈴がつなぐ浜田と伊勢国松坂〜」
が契機となり始まった島根県浜田市と松阪市の市民交流が、
やがて隠岐にも広がり、相互に訪問も継続して行われるようになりました。
この8月も,松阪からの訪問団が隠岐に行き、同所で浜田市と合流し、
相互の交流会が開催されます。
隠岐の方をお迎えするとき、よく聞かれるのは、
「なぜ駅鈴がここにあるのか」
です。
隠岐に今も伝わる旧国宝の駅鈴が、なぜ松阪にあるのだというのです。
松平康定が宣長に贈ったことが契機となったことは間違いないのですが、
では、どうして駅鈴なのか、という問いに答えるのはなかなか難しいのです。
でも次のように考えてみることは出来そうです。
「駅鈴」は、古代の法制上重要なものでした。
>>「駅鈴」
『日本書紀』壬申の乱の記述の中に、出兵した大海人皇子が駅鈴を請う場面があります。
この鈴は,本来は天皇の命を承けて,地方に赴く人が携行したものなのです。
ちなみに、松阪には「駅鈴」に因む「鈴止村」の地名も最近まで残っていました。
松阪を過ぎると神宮領に入るので、ここで駅鈴をしまったことにちなむといいます。
このような,今の身分証明書のような鈴ですから、いくつもあったはずですが、
不思議なことに、その実物はどこにも伝わっていなかったのです。
幻の「駅鈴」が日本海に浮かぶ隠岐に伝わっていたことが知られるようになったのは、天明5年(1785)でした。
果たしてこれが律令でいう「駅鈴」であるのか、後世の法制史家には異見もありますが、それは別の話です。
この年の冬に上京した隠岐第40代国造・幸生が持参し、
翌年夏から幸生の師・西依成斎や並河一敬に調査を依頼したことが、世に知られるきっかけとなったそうです。
橘南溪『北窓瑣談』(ホクソウサダン)には、隠岐国造は鈴を持ち歩き、その音は
「清亮、殊更に音高くしてよく聞ゆ」
と書かれています。
宣長の知人では、有職故実家・橋本経亮もどうやら鈴の音を聞いたようです。
>>「橋本経亮」
経亮(1755〜1805)は、京都の梅宮大社の神官で、宮中に出仕して非蔵人となった人です。
経亮に、この駅鈴に寄せた歌が残っています。
「うまや路に たまひし鈴の 音さやに ふりにし御代を おもひ出けり」
さて、それからしばらくして、再びこの駅鈴に注目があつまりました。
寛政2年に光格天皇が新内裏にご遷幸されるときです。
行列には、「主鈴」として、駅鈴管理者も加わるのですが、
この時に隠岐の駅鈴(もしくはその複製)が行列に加わったと推定されるのです。
宣長の活躍もあり古代への関心が高まり、また有職故実学の伸展、
さらには九州志賀島での金印発見など考古遺物の発見が相次いだ18世紀後半、
隠岐の駅鈴も話題の的であったことは間違いありません。
本居宣長が鈴が好きだと聞いた松平康定侯は、
この駅鈴の複製を入手し、贈り物としたのではないでしょうか。
>>「プレゼントは隠岐の駅鈴」
制作者や制作過程は全くわかりませんが、隠岐の駅鈴の精巧な模造では無いので、
大体の形を写したのをもとに制作したと考えられます。
それにしても家宝ともいうべき駅鈴の模造を造ることをよく許したものだとも思いますが、 当時の康定は、奏者番という出世コースに乗っていますから、
国造家も拒むことは出来なかったのかもしれません。
[関連リンク]
>>「駅鈴」 |