◇  ☆ と #030

 夏の企画展「教えて!宣長先生の勉強法」の会期も僅かとなったが、今回の展示で一つの工夫がある。
 解説に「☆」と「∞」のマークを付けるのである。

展示室の案内板
展示室の案内板

  は、ひとりぼっちの宣長。一人で輝いているのを表す。
  は誰かとつながっている宣長だ。
 19歳の「端原氏城下画図」なら、これは孤独な営為で、人に見せるものでも無かったから☆。
 35歳の「文字鎖」も、出来たよと自慢はしたかもしれないが、もとは冬の夜の手すさびで、やはり☆だ。

 勉強とは、本来はひとりぼっちの営為であろうが、やがてそこから興味関心という芽が出て、ぐんぐんと育ち始める。
 その時に、力となってくれるのが、同じ関心事を持つ仲間であり、また師である。
 
 十代後半、宣長は和歌に関心を持った。
 誰に習うわけでも無く、仲間もいなかった。
「たゞひとりよみ出るばかりなりき」(「おのが物まなびの有しやう」『玉勝間』)

 伊勢での養子時代には、法幢に歌の添削を受ける。これも添削以上のものではなかったようだ。
 京都に出た宣長は堀景山に師事する。師の勧めであろう契沖の著作を読み、和歌への関心は深まり、新しい展開が始まった。
 最初の和歌学習ノート『和歌の浦』は☆だが、契沖の『百人一首改観抄』は推薦者、しかも契沖に私淑することになったのだから、これは

 架空都市図「端原氏城下画図」とその系図は、☆。

 京都に憧れて一人コツコツと作った京都の文献集覧『都考抜書』は、もちろん☆だが、実際の京都生活を記録した『在京日記』は、講釈や交遊が活写されていて、これは
 
 では、自画像はどうか。
 四十四歳像はほとんど見せることも、また言及することも無かったので、☆。
 しかし、六十一歳像になると、没後に床の間に掛けて影前会を行うことを構想するとか、また模写を許可するなど、自画像ではありながら人とのつながり、つまり 色が濃い。

 一番最後は『遺言書』で、これは自分の死を見据えた営為で、文句なしに☆、となりそうだが、葬送は生き残った者との関わり方、しかもお墓参りの仕方にまで指示があるので、後の人とのつながりという点で、 でもある。

「鈴屋円居の図」
「鈴屋円居の図」

 このマークを付けたのは、宣長が実に巧みに、一人の時間と、みんなと刺激的な会話を楽しむ時間、それは歌会や講釈、また雅会といった「円居」を自在に行き来していたことに、宣長流の勉強法の極意があったと見たからだ。
 なお、松坂の円居が、新しい文化を生み出す場であったかは、以前に「圓居の文化−松坂町人文化の多層性−」(『茶道文化研究』第五輯・今日庵文庫)で詳しく述べた。
 
「韓天寿書」  もちろん、「鈴屋円居の図」も展示したが、その横に、宣長の知人・韓天寿の書(拓本)を掛けた。
 文意は、
 「用事が済んだらさっさと帰れ」
池大雅や高芙蓉と親しくした天寿だったが・・・でも孤独を愛する人もいる。
来訪者と対面するどころか、質疑応答や添削に積極的な宣長のような人もいる。

 この拓本、もともとは館長室に掛けておけばよいと、伊勢の永井謙吾さんからいただいたものだが、
リニューアルで館長室も無くなったので、
展示室に掛けてみたのだが、なかなか評判が良い。

 ☆と 、展示の中で、果たしてこちらの思いが伝わったかは心許ないが、
この視座は、宣長を考える上で有効であることは間違いないと思うのだが。



2018.8.17 

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