◇  可児と宣長 #029

 先だって、岐阜県可児(かに)市で宣長について話をした。ご当地話をという依頼ではないが、ご挨拶を兼ねてその地域の話をすることにした。
 
 はて、宣長と可児には何か関係があるのだろうか。
 可児市には、『万葉集』や『日本書紀』にも名前の出る、久々利(くくり)という場所があり、特に『万葉集』では「八十一隣」と表記されるので知られている。
 ククは、八十一だ。
 この久々利には宣長の孫弟子で、『答問録』を校訂刊行した千村仲雄という人もいる。全く宣長とは無縁だが志野焼の荒川豊蔵の窯もあったところて、記念館もある。
 しかしこれだけでは、どう考えても枕にもならない。
 そこで、可児や久々利について宣長はどの程度の知識を持っていたのかという角度から話を組み立ててみることにした。
 
 見通しはある程度立っている。と言ってもたいしたものではない。
 宣長だけではないが、近世の学者、特に国学者の知識は想像を超えるものがあって、ざっくりいうと、全部知っている。今の人のように、関心事だけをピンポイントで調べるというのではなく一通り全部調べる。
 だからこちらも、何か記載はあるだろうという、楽な気持ちで調べてみることだ。その程度の見通しである。
 
 さて、宣長の場合、17歳の時に「大日本天下四海画図」で全国3100の地名を書き、長じてからは『延喜式』神名帳に載る全国の神社約3000について六国史など古典籍に出るかをチェックしている。
 頭の中に古代の地図を描くためであろう、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』、また歌枕、天皇陵については精細に調査している。
 これらを使えば、もちろん例外もあるが、かなりの確率で、その土地にまつわる話を拾うことは出来る。後はそこから『古事記伝』や『本居宣長随筆』、門人や来訪者へと芋づる式に広げていけばよい。
 宣長は、息子の春庭とかなりの数の国絵図を写しているので、これも役に立つ。今回は「美濃国図」を使った。
 
 まず最初に『万葉集』巻13を開いてみる。

『万葉集』巻13

 3242番「百岐年三野之国之高北埜八十一隣之宮爾日向爾行靡闕矣・・」
 
宣長使用本は寛永版本である。訓が付いている。
「モヽクキネミノヽクニノタカキタノクヾリノミヤニヒムカヒニユキナビカクヲ・・」
宣長が訓に手を入れている。先ず「百岐」の間に、「久カ」と書き添え、「クキネ」の脇に「岫嶺」と書き込む。何れも宣長筆。「ミノ」を「ミヌ」と改めている。欄外に「師云、靡ハ紫ノ誤ニテ行紫闕(イデマシノミヤ)ナルベシ」とある。この説は『万葉集問目』に真淵の見解が、また宣長の意見が田中道麿への質問として、『万葉問聞抄』にあるが、直接関係ないので省く。

 「三野」を「ミヌ」と読むのに対して、宣長の誤読だという人もいるが、そう簡単にはいかないようだが、これも話題が逸れるので割愛。
 問題は「八十一隣」である。訓では「クグリ」と濁音で宣長も訂正していない。
その脇には、「泳宮【景行紀】」と宣長の字で書き込みがある。また一首の終わりに、
 「今美濃国土岐郡ニ久々利(クヽリ)ト云処アリ」
と、やはり宣長の字で書き込みがある。これは後から訂正されるはずである。
 
 次に、『日本書紀』景行天皇4年条を見ることにしよう。

『日本書紀』景行天皇4年条


 「泳宮【泳(エイ)宮、此云区玖利能弥揶】」と言う本文に、に「クヽリ」と訓が付く。
 脇の「万十三」は宣長の書き入れ。『万葉集』巻13を参照せよという指示であるが、欄外には更に、「久々利(クヽリ)ハ美濃国可児郡也。今モアル地名也。下ノ「グ」清テ云リ」
とある。ここで、『万葉集』書き入れの「久々利(クヽリ)」土岐郡説は訂正され、また、「クヽリ」と清音で読んでいたという新たな情報が加えられる。
 『万葉集』から『日本書紀』へと、宣長の知識は進んでいくようである。
 
 三冊目は『和名類聚抄』である。

『和名類聚抄』

 美濃国の地名を挙げる中に「可児」とあり「カコ」と振り仮名が付く。その右脇の「ニ」と訂正するのは宣長筆であろう。また「今国人カニト云」も宣長筆。
 
 最後の仕上げは長男春庭書写の「美濃国図」。天明4年(1784)、春庭22歳、宣長55歳の年の作である。
「可児」の部分を拡大して示す。

「美濃国図」

 聴衆にはお馴染みの場所、中には名鉄線の駅名として今も生きる地名もある。
 宣長など縁遠い人だと思っていたら、自分の住んでいるところも知っていたのだと気づくと、急に身近に感じていただける筈だ。
 位置がおかしいとか、こんな字を書いたのかと会場がざわめく。
 地名を見ていくと、二人の手が混じっていることに気づく。たとえば「禅師野」とか「帷子」、「古瀬」などは宣長の字である。「久々利」の地名もあるが、「冬利」のようにも見える。これは春庭の筆のようだ。春庭には、ひょっとしたら久々利でも冬利でもどちらでも良かったのかもしれない。
 これも話は逸れるので大雑把に書いておくが、春庭がたくさんの国図を写したことは知られている。それらを見ていくと明らかに父宣長の人も混じっている。写し終わったら父に校閲してもらうという場合もあるが、合作もあったようだ。
 たとえばこんなシーンを想像してみよう。
 作成中の地図が広げ春庭が何かの用事でその場を離れた。そこを通りかかった父が、「ああ今度は美濃国か。少し手伝ってやろう」と筆を執り、少し書き足し、去って行く。春庭が戻ってきて続きを写す。
 借りた史料には返却のこともある。親子が分担して書写を進めていたとしてもふしぎではない。
 
 さて、可児や久々利について別に何かの発見があったわけでもない。
 ただ知識が読書や見聞を通し少しずつ訂正されて豊かになっていく、そのプロセスを見たにすぎないのだが、考えてみたらこれはすごいことではないか。
 直接関わりがあろうが、あるいは無かろうが、片端から調べ、頭の中のデータベースを絶えず更新していくのである。
 地名を聞いて、地図で確認したり、ちょっとネットで調べるなど、実は私たちも同じようなことを毎日繰り返しているはずなのだが、宣長はそれを記録しているのである。
 「何かの発見があったわけではない」と言ったが、この作業によって宣長の古典の読みは深まりもしたはずだ。
 
 可児や久々利の書き入れを行っている時期の宣長にとって、やはり課題は『古事記伝』執筆であったろう。すべてのものはこの一点に集約されていく。
 また、もう一つ大切なことは医業と松坂魚町の住人と、家長としての役割も果たすことも大切だ。
 講釈や質疑応答も年を追うほどにその占める割合は高くなってくる。
 そんな多忙な中にあって、何の役に立つかわからないことは、比重としては低いはずだが、それでも宣長は一切手抜きをしないのである。楽しくて仕方ないのであろう。
 
 今からご紹介する本居宣長とはそのような人なのです、というところから、その日の本題の話へと移っていく。


2018.8.14 

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