◇  三重県立美術館「本居宣長展」への誘い #027

 ◇ ああ、気の毒に
 すべてのものが情報にしか見えない。
 今の人たちにとって、本は情報の束ですね。電子ブック、一頃流行った「自炊」。文庫本なども出発点はよく似たもの。読めば終わり。いつの間にやら美術館の芸術作品も画像情報化してしまい、作品よりもキャプションで、「成る程ね」と納得。手紙とメールも重さが違いますね。もはや物と親密に対話する時代ではないのかもしれません。
 本居宣長(1730-1801)の生きた時代は大違い。18世紀後半、文化は京や上方から東へ、そして地方へと拡がっていきます。浮世絵が登場し、学術書からコミック(黄表紙)、遊郭案内、名所図会と出版物も質量共に急増します。遠眼鏡や顕微鏡も出てくる。
 平和で、ひとまず生活も安定すれば人びとは外の世界に憧れる。見る物、聞く物、何でも珍しい。本や絵画、地図、まずその存在に驚き、矯めつ眇めつ眺め、香りをかぎ、床の間に掛けてみたりふすまに貼ったり、写してみるなど、親しく接していたのです。
 本は情報伝達が本来の目的だとか、地図は知りたい場所の確認ができればよい、絵はステイタスシンボルみたいに床の間や壁を飾ればよいといった実用的な発想は全くなかったのです。画像は、「いいね」「わかったよ」と斜めに見て過ぎゆくものではなく、対話するものだったし、地図を眺め写しながら、自分がその中に入って旅するのです。
 メディアと人との蜜月だったのかもしれません。
 遙々、熊本から松阪までやって来た帆足京(みさと)、15歳の少女は言葉も通わぬ異郷の地で何をしたか。それは先生の『古事記伝』をそっくりそのまま写すことでした。内容も大事だが、それよりも憧れの先生の本だという感激があったのです。故郷の山鹿の人たちに、「これが宣長先生の本なのよ」と、宣長の自筆稿本の質感を、まず伝えたかったのでしょう。
 このピュアな感動を、今回の「本居宣長展」で取り戻して欲しいのです。
なぜ美術館で宣長展か、少しわかっていただけたかもしれませんね。

 ◇◇ なぜ美術館で宣長展なのでしょうか
 先入観から自由になって作品と向き合って欲しい、
 それには本居記念館や、博物館ではどうしても制約が出てきます。歴史の流れに位置付けることから逃れることが難しいからでしょう。その点、美術館なら自由度は高くなる。
 物を見せるのにも上手下手があります。展示ケースの設えや照明とか、展示の文脈(並べ方)など、さまざまな要因が考えられます。でも、なんと言っても、やはりふだんから一級の美術品を扱っている担当学芸員のセンスのよさが決め手ですね。
 作品と対話するにはしつらえも大事です。茶道具なら茶室のほの暗さ、壁の色、畳の柔らかさにまさるものはないでしょう。宣長の作品でも、場所が大切ですが、様々な形態の史料や作品ということを考えると、美術館という選択肢が浮かび上がってきたのです。
 ずいぶん前のことですが、ある県立美術館に記念館から「本居宣長四十四歳自画自賛像」を出品したことがあります。その時、驚いたのは、展示空間が変わると見慣れたはずの作品が全く違って見えたことです。
 また数年前には奈良県立美術館で「大古事記展」が開催されました。同じ年に、数百メートル離れた奈良国立博物館でも「古事記撰進1300年」展が開かれたのですが、学術的な奈良国立博物館と『古事記』世界の衝撃を伝える美術館では、作品は似通っていても、大きな違いがあったのです。
 今回は、宣長の使った『古事記』が出ます。「ああ『古事記』ね、現存最古の歴史書で、これを宣長は研究したんだよね」ではなく、まず物として見て欲しい。
 ずいぶん汚れている。たくさんの書き込み。附箋で本がふくらんでいる。色々な発見があるはずでしょう。これはそこらの古本屋の店先にある来歴の知れぬ本ではない、まぎれもない一流の研究者の使用したもの、本物であるから安心してその世界に遊んで下さい。やがてそこから、この本に向き合った宣長の四十数年という歳月が、実感できるはずです。

◇◇◇ 宣長スタイル
 『古事記』の書き入れ、何人かの手が交じる中でひときわ輝いているのが宣長の筆跡です。見ればわかります。スッキリしている。この整った字を見るだけで学問の信頼度は高まるように思いますが、それはともかく、これは自筆稿本や画賛にも共通しています。几帳面というより、そこには一つの美意識が作用しているようです。それを私は「宣長スタイル」と呼びます。「本居宣長四十四歳自画自賛像」はその集約であり、近代日本画家の巨匠・安田靱彦、望月春江、宇田荻邨の宣長像にも引き継がれていきます。
 「美しさ」と言えば、清らを尽くす『源氏物語』や『新古今集』の世界です。
 今回の展示では屏風や絵巻で、宣長を魅了した『源氏物語』の世界に皆さんをご案内します。全国から集められた珠玉の「源氏絵」が並びます。古典と聞くと何かひからびたイメージを抱いてしまいますが、葵祭や参内する公卿たちを見てうっとりする宣長の「源氏」世界はきっとこんなきらびやかな世界だったはずです。だから人々は宣長の高度な講釈でも楽しめたし、時には時空を越えて紫式部が礼を述べに宣長宅を訪れたりもするのです。何の音も、香りもしない、モノトーンの世界ではないのです。

◇◇◇◇ みんなが ☆ とんがっていた △ 時代
 宣長の住んだ伊勢国松阪は、「極彩色の町」です。豪商の町だからといって山吹色ではありません。曽我蕭白「雪山童子図」の鮮やかな色彩。この絵が描かれたのは、宣長と賀茂真淵の「松阪の一夜」があった翌年です。蕭白が大騒ぎをしてひんしゅくを買う、僅か300メートル離れた所で、『古事記伝』執筆が開始されたのです。でろりとした質感の鴨川井特は、宣長宅にまで入ってきます。漢意を批判し大和心を説く宣長と、中国の山水や書に心を寄せる韓天寿の親交も不思議です。池大雅らが語らう脇を宣長は薬箱を持って患者の家に急ぎ、夜になったら、蕭白や天寿、大雅と賑やかな時間を過ごした人が、宣長の「源氏」講釈に集まり、灯のもと『古事記伝』の抜き書きを行っているのです。
 遊女の絵に宣長が賛をする。誰がこんな物を頼んだのだと、私の貧弱な価値観では何とも説明がつきませんが、雅も俗も混沌とした宣長の時代は、松阪だけじゃないく各地に「元気」が満ちています。みんながとがっている。だから、人の圏域は犯さないとか波風を起こさないという発想は無縁です。たとえば賀茂真淵も宣長も、友人の荒木田久老や谷川士清、門人たちも、ものすごい情熱で学び、執拗に質疑応答をし、悪口も言い、からかいもする。自分の世界と判断基準を持っているから、流されもしない、面白いものには飛び込んでも行けるのでしょう。そんな時代の中で、自分の世界を構築する宣長を見て頂きたいのです。
 この元気があったから、日本は近代に向けた力強く歩み始めることができたのです。
 展示を見れば、きっと皆さんの宣長観、いや、未来も変わるかもしれません。


  >> 秋の宣長関連行事 美術館開館35周年記念V「本居宣長展」



2017.9.13 

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