◇  政所茶のこと #022

「これは、本居宣長の『玉勝間』に出てくるお茶です」
といって近江商人博物館学芸員の上平千恵さんから差し出されたのは、
近江の奥永源寺(東近江市)で栽培されている
「政所(まんどころ)茶」の煎茶でした。
「伊勢松阪商人と近江商人」(2015年2月19日、20日、東京日本橋三重テラスで開催)の会場でのことです。
 
『玉勝間』に「政所茶」って出てきたかなと 思いながら頂くと、
いや、これは美味しい。
 
近江の山奥の話と言えば、
惟喬(高)親王の「君ヶ畑」記事は覚えているけど、
お茶のことまでは記憶していないけど、
それでも「政所」などと由緒ありげな名前だから、
ひょっとしたらと思いながら、
「出てきましたっけ」と聞くのも恥ずかしく、話は別のことに移っていきました。
 
帰ってから確認すると、書いてありました。
やはり、「近江国の君ヶ畑といふところ」という項(巻6)です。

「あふみの犬上ノ郡の山中に、君が畑村といふ有て、大公大明神といふ社あり。惟高親王をまつるといへり。村の民ども、かはるがはる一年づゝ神主となる。まづ一とせの間ゆまはりて・・・」
「ゆまはる」とは「斎まはる」、身を清らかに保つことです。
その文章の最後に、
「此村は、伊勢ノ国員弁ノ郡より越る堺に近き所にて、山深き里なりとぞ。此村人ども、夏は茶を多くつくりて、出羽の秋田へくだし、冬は炭を焼て、国内にうるとぞ。その茶をもむ時の歌、
ここでもむ茶が、秋田へくだる。秋田女郎衆に、ふらりよかよ」
その頃、秋田にまで運ばれ飲まれていたお茶が、
今、まぼろしの在来種茶「政所茶」として、販売されているのです。
 
宣長はいったい誰にこの話を聞いたのでしょうか。
調べてみると分かりそうな気もしますが、それは今後の課題とします。
 
宣長が吉野飛鳥の旅にもお茶を持参していたことは、『菅笠日記』に出てきます。
また、和歌山での藩士への挨拶にもお土産はお茶でした。
持って行ったお茶は「川上茶」、
これは当時の松坂では、櫛田川上流のお茶、川俣茶をさしていました。
 
ここで思い出すのが、『松坂権輿雑集』(1752年序)の記事です。
「新町、天正十六子年松ヶ島より移。丁役全歩、川俣谷にて製し来煎茶、
関東に運送の問屋多。宝永七年寅年町中の茶荷八千七百五十駄余と記」
宝永7年と言えば1710年。
その5年前の宝永5年に、この新町村田家で生まれたのが、勝。つまり宣長のお母さんです。
 
松坂の名産と言えば、今は「特産松阪肉」ですが、江戸時代は松坂木綿とお茶でした、
と私はいつも話すのですが、
大喜多甫文さんが作成された、「主な江戸店持ち松阪商人」という一覧表
(『松坂商人のすべて(一)−江戸進出期の様相』十楽選よむゼミ11)を見ると、
39軒の内、営業内容でお茶とあるのは僅かに1軒、新町の村田家だけです。
先の「関東に運送の問屋多」と言う記述や、
江戸時代初期の櫛田川水系から東北へのお茶輸送に関する史料があることとを併せ考えると、少し疑問が残ります。
 
さて、一覧表の「村田家」は、おそらく勝の実家でしょう。
ただ、勝の実家は木綿商だったという証言もあり、
これまた疑問が残ります。
 
幕末、川俣茶は、射和の竹川竹斎、中万の竹口信義、国分信親三兄弟によって、
輸出品として脚光を浴び、
その後を継承する大谷嘉兵衛は、積極的に輸出を展開し、
アメリカへのお茶の輸出に掛かる関税撤廃を実現したことなどで、茶王と呼ばれました。
茶人蒲生氏郷や、長谷川家とか竹川家との裏千家の関わりなど、
松坂(阪)もまた、お茶とは関わりの深い土地なのです。
ちなみに、今の松阪のユルキャラは、ちゃちゃもです。
松阪市役所のHPには、
「ちゃちゃも」は、松阪市の合併5周年を記念して、平成22年2月20日に誕生しました。
デザインについては、世界ブランド「松阪牛」をモチーフに、
松阪市の豊かな自然と、その中で育まれる「おいしいお茶」から緑色をしています。
また、「ちゃちゃも」という名前も、牛の鳴き声の「もー」と「お茶」から名付けられています。
と書かれています。
 
ぜひ近江の政所茶と松阪のお茶を飲み比べて、
宣長の時代に思いを馳せてください。



2015.2.23 

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