現在開催中の 『やちまた 父と子の旅』展 は、宣長が代筆した春庭の歌と、宣長の父定利の遺言状で始まる。
自分の学問を継いでくれることを期待をして手塩にかけた息子。その失明という、非情。数ある宣長懐紙の中でももっとも悲しい一幅である。
また11歳の息子を残して江戸で死ぬ父定利、「富之助(宣長)成人致し候迄」の文字が辛い。神に祈って授かった子は商いの筋には疎くて、書を読むことを好んだ。この子の行く末のことを考えると死んでも死にきれなかったのではないか。
ではなぜこのような悲痛な史料が、初春の展示の一番最初にあるのか。
それは、新しい学問が生まれる要件、あるいはその誕生の瞬間を見ていただきたいからである。
これは世の男親には情けないことではあるが、父から自由になったことで宣長の医者、学者へ道が開けたのだし、また失明によって宣長という重圧から解放されたところに春庭の学問があるのだ。
学問は継承が大切だが、それが時には重荷になることもある。足かせになることもある。
江戸の真淵先生と松坂の宣長の間には430qという距離があった。
また伊勢の神宮や、たとえば隣町の津は藤堂藩、京都などの権威というものからの適度な距離があった。
あまり偉い父親というのも、子にとってはじゃまになることもあるだろう。
天才的な先生には優秀な弟子は出ないと言うではないか。
ただ忘れてならないのは、たとえば春庭の学問の基礎、特に言葉の研究のベースは、おそらく父の講釈を子守歌代わりに聞き、手伝って『御国詞活用抄』を書いたことで培われたのだから、種はきちんと蒔いておかねば芽は出ないし、土壌が良くないとすくすく育たない。
だから神宮や津、京都から近すぎてもだめで、離れすぎていたらこれも大変な問題である。
私は、宣長における親子の問題、あるいは「子ども」というのは、プライベートなこととしてではなく、学問上からもとても大切なテーマではないかと考えている。
さて、展示の中に、足立巻一さんの『やちまた』があるが、この本を、「悪魔的名著」とした屈折した紹介が正月早々、新聞に出た。
これについては、次回触れてみたい。
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