◇  新上屋跡の碑 #015

 賀茂真淵と宣長が対面した記念の場所「新上屋」の跡に少し動きがある。
 これまで記念館に移設されていた初代、二代の両碑が日野町のもとの場所に戻るのだ。
 この場所は、1953年(昭和28年)に史跡に指定されたが、初代となる碑はすでに1940年に建っている。
 場所を確定したのは郷土史家の櫻井祐吉氏の業績だ。その経緯を、同氏の著作から引いておこう。

「昭和二年十月某日著者の一友人安田信三氏によりて、一の端著(緒?)を得、越へて同年十一月十二日夜又他の知己故古川伊兵衛氏の発見によりて 「新上屋」は日野町の名族にて享保十六年二月十九日を以て行はれた、日野町今の県社八雲神社の遷宮祭の際父子両人にて宝物を棒持せる芝山惣太郎、同宗太郎 なることの文献を同神社の縁起由来中より見出し茲に此の☆(門に単)明に従事して寔に二十年
                       松阪日野町
新上屋は 芝山惣太郎 子息芝山宗太郎
なることは判然せしが、その所在の地点が何れなるかは此の八雲神社の縁起にては知るの由なく這は安田信三氏の報知により、暫らく、然り仮定的に日 野町通り筋現丸木政次郎氏氏邸と魚住誠一郎氏邸の中間と断じ、当時著者は愉悦極まりなき侭にそのこゝに至れる次第を説きて世に公にせしより、意外に世上の 反響を蒙り或は著者の微意を諒とし又或は其挙を壮として劇(激?)励せらるゝ等望外の名聞を博せしが、思ひきや、該地点には猶誤謬ありて、曩に断定せる丸 木、魚住氏邸宅の中間は早計に失せる断定なりしことを神ならぬ身の知るに由なかりしを併しこれは又幸ひにも自己一身の力にて発見しその上動揺せざる確実なる文献を見出し、遂に此の著者なる史蹟を審かに為すを得たが、それは右発表後昭和五年三月中由緒りなく松阪西町山村家の森壺仙翁自筆の未刊行稿本随筆「宝暦ばなし」の記事及び挿図によりて明らかにその地点が同じく日野町通筋西側新町通り起点を隔てる西方現在の紙店藪庄氏の扣家なること判然し学界百六十余年の疑問が氷解され猶続ひて昭和七年四月是又所縁りなくも芝山氏の系譜正しき後続者が現在三重県飯南郡大石村大字小片野に柴山(芝)延蔵氏なる事も判明し曽而著者が生涯を堵せし埋没史蹟の闡を公にするを得たり、当時此の再度の発見ありし節著者の知己桑名の竹内文平氏の注意によりその顛末を日刊伊勢新聞に報じて掲載されこれを公にせるも中には今も猶前発表の丸木、魚住両氏邸中間なりとされる向もあるやなれば、此の機会再び記述を新たになし置くべし
【而して此の真淵宣長の対面を斡旋した書店柏屋兵助の居宅は現在本文やぶ庄紙店より一軒を東に隔てる岩井運送店のある地点なることも事の序に知り置かれたし】」
    『郷土の本居宣長翁』(鈴屋遺蹟保存会幹事)櫻井祐吉・
        昭和16年5月1日・松阪市公園 郷土会館出版部

 おおよその内容は、まず新上屋の主人が芝山氏であることが分かった。安田氏の話でほぼ場所も特定できたので、その説を発表した。ところが『宝暦はなし』と言う本で、その説の間違いに気づいたので訂正することが出来た。
 この後、櫻井氏の話は、会見に同席した尾張屋太右衛門の家も『宝暦ばなし』で確認されることに移っていく。

 櫻井氏は、その後にも再びこのことを書いているので併せて引いておく。

「昭和二年十一月十二日友人一二の協力を得て、該新上屋なる旅籠屋が松阪日野町に存在し其の氏名が芝山惣太郎と称したことの文献を発見したが地点 の確たることには猶一抹の不安ありて引き続き研究する裡その後昭和五年三月由緒なくも松阪西町の人森壺仙(山村次郎兵衛二男幸次郎)が文化八年二月著述の 自筆の未刊草稿本「宝暦ばなし」を山村家整理の際筐底より筆者が発見し此暑中の記事と挿図に依りて新上屋の地点が明らかに示され夫れは伊勢街道日野町十字 路より西側今の紙商やぶ庄竹内家の西隣り即ち第三相互銀行控地なること歴然として知られ、こゝを東に二軒隔てゝ今の岩井煙草店が当時はこの真淵宣長の初対 面を斡旋した書肆柏屋兵助であることに徴し愈よ動かすことのなき史蹟であり而も現在松阪市中央最殷 盛地であることの偶然を想起すれば思い央ばに過ぐるものある所知るべきである。今第三相互銀行コンクリ塀に史蹟の指定を標示し昭和二十八年十二月八日市の指定に依る史蹟である」
         『鈴屋遺蹟と魚町一丁目』櫻井祐吉・
          緒言「昭和戊戌(33年)夏の日」・鈴屋遺蹟保存会

発見の経過や新上屋の末裔についてなど、詳しかったり逆に省かれたりと、全く同一内容ではないが、もちろん両書に矛盾はない。
 これによって「新上屋跡」発見の経過が明らかであろう。

 不思議なのは、既に佐佐木信綱の「松坂(阪)の一夜」は、リライトされて教科書に載っている。だから場所も問題になったのであるが、柏屋の老主 人は、当然、新上屋のおおよその場所、つまり二軒おいて隣だと言うことは知っていたはずだ。信綱少年もそれは聞いていたであろう。だって、道の向こう側に あったというのと、すぐそことでは、老主人の話も力の入りようが違うはずである。
 したがって、信綱はおおよそ知っていた可能性はあるのだが、櫻井氏が信綱に尋ねたときに、宣長の『日記』に「新上屋」と出ているからあったことは間違いないという程度の回答しか無かったという。

 もう一つ不思議なのは、1940(昭和15)年に、本居塾の人たちによって、碑が建っているはずなのに、全く触れていない。
 そのくせ「史跡指定を表示し」た案内板のことだけが記されている。

 追記しておく。
 『郷土の本居宣長翁』で、

「当時著者は愉悦極まりなき侭にそのこゝに至れる次第を説きて世に公にせしより」
とあるが、
これは櫻井祐吉が昭和3年4月10日、『【真淵宣長】初対面の遺蹟新上屋』を鈴屋遺蹟保存会から出版したことを指す。

 八雲神社遷宮記録は今も同社に伝わる。拝見し、記載内容を確認した。平成6年頃である。マイクロフィルムにも収めてある。
 小片野町の柴山家には、20年ほども前であろうか、小泉祐次館長(当時・三代目)とお邪魔をしたが、対応して頂いたおばあさんは、先祖が日野町にいたことも、ましてや旅籠を営んでいたことも、全く記憶しないとの話であった。
家紋の入った提灯箱などをもらって帰った。
 また、新上屋主人の位牌が愛宕町の井筒屋井上家にある。その理由は全く分からない。
 結局、芝山家については現在のところ不明と言わざるを得ない。

 なお、この度移設される初代、二代目の碑についてだが、
初代は私が記念館に入った頃(1980年)は二階のフロアーに立てかけてあり、碑は二代目の時代であった。
 初代の碑の記念館に入ったいきさつは山田勘蔵氏の「松阪新上屋の話」に詳しい。
 二代目も、それを建てたオークワの撤退時に廃棄され、三代目の碑が建った。初代と同じ小さな碑である。
 これでは、新上屋跡だとわからないねと皆はささやきあった。
隣に山桜などを植えたり、また好意で案内板を建てていただいたことが逆に碑の存在を隠してしまった。

 その頃であったか、小泉館長が中国を訪問された。土産話の中で、「碑林」が話題に及んだとき、ふと放置されている碑や、ガードレールに押し込まれた無惨な菅笠日記碑のことが思い浮かんだ。
 宣長の関係碑を旧宅脇、石垣との間に集めて「碑林」を作ってはどうか。
 だが、肝心の二代目の新上屋跡碑がどこに持って行かれたのか分からずに、そのままとなってしまった。
 館長は四代目の高岡氏の頃であろうか、旧松阪市史編さん室が取り壊される時に、そこに新上屋跡碑が放置されていることを知り、碑林の思いつきを提案したらすぐに了解された。
 ただ場所は、そんな人の見えない所ではいけないと、記念館玄関脇への移設となった。

 松阪の一夜250年の今年、ある人が、この碑は日野町にあるべきじゃないですかと言い出されたので、記念館としては結構ですが、相手のあることですからと返答したら、 早速に日野町の土地を管理する市商店街連合に話を持ち込まれ、宮村元之会長の賛同を得て、元の場所への移設が決まった。
 こちらもトントン拍子であった。
 
 碑は、松阪の一夜250年の年に、もとの場所に戻る。安住の地となることを祈るばかりだ。
 
 石碑や道標は、ある日忽然と消えたり、また簡単に移動したりもする。
 興味が失われ、またいらぬとなれば捨てられてしまう。
 碑は、何かの団体なり篤志家が建てる。
 一度建つと、何十年、何百年でも残る。
 そのうち、いったい所有者、管理者は誰か、土地の問題を含めて難しい問題が出てくる。

 だが石は燃やすわけにはいかない。
 粉砕するのも手間だ。
 また立派であると、捨て場所に困り、結局は埋められたり転用されたりもする。

 松阪市黒田町の和歌山街道と熊野街道への分岐点の大きな道標も、要らないと廃棄され、役場の踏み石にされていた。
 それを松阪歴史民俗資料館の当時の田畑館長が探してきて、資料館の前に建てていた。
 棄てた人たちはいなくなり、棄てたことすらも忘れて、
 何でこんな所にあると、地元からの要望でまたもとの場所に戻った。

 だいたい、碑を廃棄することなどは記録には残さない。
 誰かの、かすかな記憶だけがたよりである。
 
 この新上屋碑が記念館の脇にあったことなどは、やがて人の記憶からも消えていくだろう。
 これは仕方がないことではある。

初代新上屋跡碑
初代新上屋跡碑


二代新上屋跡碑
二代新上屋跡碑



2013.7.1 

Copyright(c) Museum of Motoori Norinaga. All rights reserved.