平成25年春の企画展に、
『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』と『古田氏家中騒動記』
を展示している。
2点は、本居大平筆で、「大平」の印や奥書のある旧蔵本。
その後、松阪市史編さん室を経て、同室解散後記念館に移管されたものである。
古田家に関する大平の史料は他にも編さん室から移管されている。
リストは『新規寄贈品目録第2集』に載せた。
今回の2点は、その中でも特に重要なもので、初公開である。
古田氏とは、松坂城3代城主重勝、4代城主重治の一族だ。
重治の時、1619年に松坂から石見国に転府、同地に城を築き、作った町が、現在の浜田市である。
そもそも、大平が古田氏を調べるようになったわけは、
大平の師である宣長が、自分の祖先を明らかにすることが基本であると言う教え(『玉鉾百首』)による。
ルーツを調べていったところ、1657年(明暦3)に没した寿春居士で止まってしまった。
その子の順適(のぶゆき)が須賀氏に養子として入った。
順適は、先妻との間に生まれた松に須賀家を譲った。その子孫が、須賀直見。
>> 須賀直見
また、順適自身は後妻のつねとの間に生まれた導孝と隠居して稲懸(掛)を起こした。
(稲懸と言う姓は寿春居士の妻の家の名前だったそうです)
流れは次のようになる。
順適(是法)−須賀松−はつ−直見
順適(是法)−稲懸導孝−りお−大平
では寿春とは誰か。
須賀直見がつね(妙讃・明和2年没95歳)に聞いた話では、浜田の古田家重治の子どもであったが、
「石見くづれ」、つまり古田のお家騒動で国を逃れ、松坂の地に来て稲懸氏の女と結婚したという。
※「石見くづれににげておはしつるなり」大平「寿春居士の伝」
重勝の子が重恒、浜田2代城主。
重勝の子が重治、松坂4代、浜田初代城主である。
つまり、浜田古田家城主重恒のいとこが寿春となる!
ここから大平の古田家調べが開始された。
『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』は、大平の取材、調査ノートである。
展示したのは松阪挽木町にある大膳塚、中町の龍華寺の古田家墓の取材記録(スケッチ入り)。
大膳塚の記事の最後には、
「寛政元年酉六月十六日大平参詣拝見」と調査日が書かれている。
※寛政元年(1789)宣長60歳・大平34歳・春庭27歳
このあと松崎浦の海禅寺の文書記録が転写されたりもしている。
当時の松坂の資料としても貴重だ。
古田騒動は、あまり良くない話なのだが、重勝の子重恒は引きこもり、しかも男色で寵愛していた家臣がいた。
子どもがいなかったうえに、重恒自身も余り丈夫でないし役立たず。
家臣はその跡を誰にするかで思案して、お定まりのお家騒動が勃発したのだそうだ。
宣長が盛岡藩の医師安田道卓に依頼して、九戸城合戦 で討ち死にした遠祖本居武秀を調べたように、
宣長門人となった浜田の人たちからの史料を頼りに調べていったのである。
《参考文献》
「寿春居士の伝」(「藤垣内文集」)
『(本居大平翁纂輯)松阪城主古田家史料』
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