「ちょうちょう」という小学唱歌の原型は、明治7年に野村秋足によって採集された愛知県尾張地方のわらべ歌で、と山田俊幸氏が話された(宣長十講2010年11月20日「宣長と危機の時代」)のを聞いて驚いた。
突然、谷川士清の『和訓栞』を刊行した秋足の名前が出てきたからだ。
秋足の名前は、士清の話の中でしばしば耳にするが、まさか「ちょうちょ う」と関係あるなどとは思わなかった。事績も聞いたことはない。また、唱歌を調べる人も『和訓栞』刊行の功労者とは、あまりご存じないだろう。
現在は、問題意識や情報を共有することが簡単にできるだけに、昔とは違った研究の展開が期待できそうだ。
来年2012年は、『古事記』成立1300年。年度では平成24年度が多いようだが、記念の行事が始動し始めた。
何周年という年を祝い、記念行事を行うことは今に始まったことではないが、官民が一体となって多彩な催しが繰り広げられることがますます盛んになってきたようだ。
今から10年前、2001年、宣長没後200年でもさまざまな行事が行われたが、心残りは行事の全体を記録したものが、関係者に配られたコピー の束だけで、それも全体を見渡すものではない不充分なものだったことである。本当は記念館で作らねばならないものだったのだろう。今、悔やまれてならな い。
2009年3月、三重県津市では谷川士清の生誕三百年を記念して、「士清ウイーク」が開催されたが、このたび記念誌『士清さん−谷川士清生誕三百年 記念誌−』がまとめられた。とてもうらやましい。
内容は、論文集と顕彰事業報告の二部立て。
論文集には次の九篇が載る。論文とは言っても巻頭の私のものなど概説で、「論文集」は、論文と文集と理解していただいた方が正確だろう。
「谷川士清と本居宣長」 吉田悦之
「国語学史上の谷川士清」 山本真吾
「『和訓栞』の諸本と使用上の注意」 三澤薫生
「士清の立ち位置」 高倉一紀
「『日本書紀通証』における引用出典の確認」 山口格
「医人としての谷川士清を考える」 杉山陽一
「谷川士清旧宅の解体修理に関して」 茅原弘
「消えゆく江戸」 西田久光
「谷川士清と僕」 安田文吉
顕彰事業報告には、イベントの写真や子どもたちの作品、また資料展の報告には、士清の基本資料である『阿漕雲雀』や石水博物館収蔵史料の写真も入り充実している。
北岡四良の研究(『近世国学者の研究』)以降しばらく停滞しているかに見えた士清研究だが、1999年には谷川士清の会が発足し、石水博物館で は「谷川士清展」が開催された。また、士清手沢本『素問』・『霊樞』など資料の発掘、三澤薫生氏の『和訓栞』の研究など、めざましい成果を上げている。
だが、士清における未解明の問題もまだまだ多いことが、この九篇を読んでもわかる。
記念事業は終わったが、今回の顕彰事業の牽引役となった「士清の会」 の活動は今後も継続されていくと聞く。また、研究もゆっくりとではあるが確実に進んでいる。一つの提案がある。
士清のデータベースの構築である。
私は、『和訓栞』は、国語辞典と言うより士清のデータベースと考えた方が相応しいのではないかと思う。知り得た情報を五十音順に配列して公開したのだ。その恩恵に浴したのが宣長だ。
本居宣長の資料を探していると、士清に関わるものを目にすることがある。
また垂加神道、出版、また考古学史、それぞれの領域で研究が進み士清の名前が出てくる。古書目録にもすばらしい資料が出ることもあるし、先ほど の野村秋足の情報などもある。このように関わりあるものを細大漏らさず集積して、データベースを構築してはどうだろうか。私はこれを士清にかこつけて書い ているが、他人ごとではない。
急務は、宣長のデータベースの構築である。
本居宣長記念館には、今も年に何件もの資料寄贈がある。最近では、故簗瀬一雄先生の収蔵品の一部が搬入された。植松茂岳や賀茂真淵の画像、村田 春海差出宣長宛書簡などが含まれる。宣長資料についてはもちろんだが、近世国学資料も益々充実している。このような一次資料にあわせて、関連する資料や情 報もどんどん集まってくる。
次の問題は、その利用の方法だ。集められたものは、このホームページなどを使って積極的に公開したいと考えているが、将来的には、データベースの構築という夢を持っている。
ただそれがどのような形が望ましいのかは、まだ茫漠として形になっていないのだが。