幕末、明治初期に伊勢国射和村に竹川竹斎という人がいた。宣長門人竹川政信を父に、荒木田久老を外祖父にもつ竹斎の多方面にわたる活躍はよく知られている。たとえば私設図書館の先駆となった射和(いざわ)文庫の創設や、裏千家の茶人として玄々斎との交友、射和万古の窯を開いた。地元の小学生は、私財をなげうって射和上池の造築など村の産業に貢献したことを学ぶ。
皆さんは、勝海舟が咸臨丸で渡米した時の写真をご存じだろうか。勝が持つ大刀は竹斎から贈られたものである。開国論者としての発言や科学への関心の深さも最近では注目の的となっている。
竹斎を研究する岩田澄子さんとお会いしたとき、「吉葛園」についての質問があった。
「吉葛園」、よさづらのそのと読む。竹斎の三畳隅炉の茶室の名前である。『日本書紀』の「天吉葛神」に由来するのであろうこの「吉葛」だが、上質の葛で澱粉の原料だなどと注釈されるが、はたしていかがか。
私見だが、それは戦後の知識であり、近世ではたとえば宣長は「葛布」説(『日本書紀』手沢本)であり、賀茂真淵は「瓠」説(『祝詞考』)であった。祖父久老の心情を斟酌すると、竹斎は真淵説を採用しただろうし、また竹斎の「竹」も中が空洞で共通すると私はお答えした。
断片的で思い付き、回答の体を為さないものであったが、岩田さんはきちんと整理し、日記の標題が「瓢園主人」から「吉葛園日記」に変更されているという証拠まで挙げられ、「開国論者・竹川竹斎の茶に関する活動について」※の中で紹介していただいた。
「吉葛」のようなディテールはともかくも、この岩田さんの論文が画期的なのは、竹斎の主たる活動域全体を見渡すというところにある。
竹斎の茶道との関わりについては、既に『淡交』(平成6年12月号)等茶道関係誌でも取り上げられ、最近では永井謙吾氏の『茶人竹川竹斎とその周辺』(平成21年10月・私家版)という本も刊行された。永井氏は、茶会記を読み込み、道具の目利きでもあり、何より茶をこよなく愛される人だけに力のこもった一冊である。また一方には、竹斎を初めとして伊勢の茶道史を広い見地から捉え直す戸田勝久氏の丹念な研究があり、両方が合わさると豊かな内容の茶道史が描けるはずである。
しかし竹斎の目は、茶道だけに向けられていたのではない。茶陶や茶の葉の栽培、可能性としては静岡県牧之原台地の茶業にまで拡がるものであった。
いち早く近代を見据えていた竹斎。その号に国学者の知識、また宣長と真淵、久老という人々の影、つまり近世の文化伝統が見えるのは、教養の厚さを物語るものであり、興味深い。
※『茶の湯文化学』第18号 平成23年2月20日 茶の湯文化学会編集・発行