◇ 病と苦役 (やまいとくやく) #005

 パンデミックに鳥インフルエンザ、21世紀になっても疾病の恐怖は勝りこそすれ、克服の目途は全く立たないようだ。花を待つ頃は、花粉症に怯える季節でもある。
 仕事の傍ら『古事記伝』を読み続ける方から、メールが届いた。そこには、
「今日は少し時間をとって『古事記伝』に取組みました。二十三之巻の最初の方に、「役病」と「疫病」についての考察があります。この数行の文章の解釈に数時間もかかりました」
とあった。
 問題の箇所は、

「この天皇(崇神天皇)の御世、役病(エヤミ)多(サハ)に起こり、人民(オホミタカラ)死(ウセ)て尽きなむとする」(『古事記』中巻)
の注である。

 「エヤミ」とは、流行病、パンデミックのようなもの。『古事記伝』の説を要約してみよう。
 まず最初に、この「役病」(エヤミ)を、「疫病」と書く本があるが、ここは真福寺本などの「役病」が正しいと言う。次に、「エヤミ」が古語であることを、『和名類聚抄』や『日本書紀』、『大鏡』で確認する。龍胆をエヤミグサという記述も紹介される。

 では「エヤミ」とは何か。「役」は「エ」ともまた「エダチ」とも言う。「エダチ」とは「役立」。これは強制された労働を意味する言葉である。逃れることができないことでは疫病も、漢籍には民が皆病むとあるので、よく似ていると宣長は考える。
 ここで宣長は、真淵先生はこの箇所を「疫病」として、「疫」を「エ」と読むのは字音をとったのだ。またこの箇所は次に出てくる「神気」と同じで「カミノイブキ」と読むのだと言われたことを思い出し、自分も「役」も「疫」も「エ」と読むのは字音だろうと考えていたと告白する。理由としては、日本語の「エ」の意味が「役」や「疫」と重なりすぎるからだ。
 でもよく考えてみれば「役」の意味の「エ」も、「疫」の意味の「エ」も共に古い言葉である。「役」はわが国の言葉と漢字音が同じである。このように両方の言葉が同じだったり、また似ることは稀にはあることだが、全部向こうから伝わったと考えるのは誤りである。
 まとめとして、「疫」の字は「役」から転じて生まれた(「疫は役也。言は鬼有りて役を行う」『釈名』)、わが国の「エ」の場合と発想は同じである。「エ」については漢字音由来説は誤りである、と結ぶ。
 今は、たとえば『新編日本古典文学全集 古事記』で、「エ(疫)+ヤミ(病)。エは「疫」の漢字音に由来する語で、悪性の流行病を意味する。「役」の字は「疫」字に通ずる」とあるのを見て、また『岩波古語辞典』で、「「疫」の中国北方の字音yekのkの脱落したもの」を確認して次に進むのだろうが、それに比べると『古事記伝』の記述のなんと豊かなことか。真淵説に幻惑されそうになりながら、踏みとどまり考える。強制労働の「役」と流行病の「疫」を同じ感覚で捉えていた古代人の思考にまで遡り、日本も大陸も共通する発想法に思いを致す。

 同じ言葉があるからと言って短絡的に伝播したとは捉えない。向こうから伝わってきたと捉えた方が楽だし、説得力もあるのだろうが、それは思考停止である。宣長はそれを拒絶する。私たちは、宣長の考え方の推移をたどることで、試行錯誤を重ねることでしか見えないものがあることを知る。これが『古事記伝』を読む楽しみである。

 「行病」。この一語を解くのに宣長はどれだけの時間を費やしただろう。メールの方の数時間は決して長くはないと思う。



2011.3.1

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