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① 5 月21 日 |
(土) |
宣長と源氏物語年立 |
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天理図書館 宮川 真弥 |
『源氏物語』には光源氏らの年齢を軸に出来事の推移などを記した「年立(としだて)」が作られ、以降、様々な修正意見が提出されていました。
それらを見た宣長は各説を考え合わせ、「源氏物語年紀考」を執筆します。改訂を経て、後に『源氏物語玉の小櫛』に収録、出版。これを「新年立」といい、現在でもひとつの基準となっています。
宣長はいかに「年立」と対峙したのか、宣長の「考え」の経緯について考えてみましょう。 |
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② 6 月18 日 |
(土) |
宣長の不思議 |
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本居宣長記念館 西山 杏奈 |
「みなあやし(すべて不思議だ)」
と、宣長は言います。子どものころ、一人ぼっちで本を読むことから始まった宣長の「ものまなび」。興味関心を抱くものすべてに対して向けられた宣長の「ものまなび」の目は、真っ直ぐに「不思議(理解出来ないこと)」を捉え、人間の知恵の限界を悟りながらも、研究者として格闘します。世の不思議、それに対する宣長の考え方を探る1時間です。
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③ 7 月16 日 |
(土) |
若き日の宣長は和歌をどう読もうとしたか
―『草庵集玉箒』をめぐって |
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日本学術振興会特別研究員PD 藤井 嘉章 |
本講座では本居宣長による最初の本格的な和歌注釈書『草庵集玉箒』を扱います。この著作で用いられている和歌解釈のための用語「たゝかはす」「全体の理/作者の見る心」「本歌」などを通して、宣長が和歌をどのように解釈しようとしたのかを考えます。結論として、確固とした和歌的な言語空間を頭に描いた上で、その和歌的言語空間との対照として今ある歌を解釈しようとする宣長の和歌の読みに関する考え方を見ていきたいと思います。 |
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④ 9 月17 日 |
(土) |
宣長と貫之の「もののあはれ」 |
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法政大学 大野 ロベルト |
宣長にとって大きなテーマの一つである「もののあはれ」。この言葉が初めて使われたのは、実は紀貫之の代表的な作品『土佐日記』においてです。しかし、詳しく読み解いてみると、両者の「もののあはれ」には若干の違いがあるようにも思われます。それは何故なのでしょうか。宣長と貫之、そして現代を生きる私たちそれぞれの価値観に、しばし思いを馳せてみましょう |
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⑤ 10 月15 日 |
(土) |
本居宣長と流行病
―生物の進化と病因をどのように考えたか |
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日本医史学会代議員 吉川 澄美 |
この100年ほどの間、日本では大きな感染症の流行はありませんでしたが、江戸時代「流行(はやり)病」は身近でした。本居宣長は小児科医をめざして医学を学ぶ過程で「病とは何か」「医者はどうすべきか」を考え、町医者となってからは疱瘡神と向き合ってました。医学から見たシン(神・真)とは何か、宣長の書いた医論『送藤文輿還肥序』や『玉勝間』などから探ってみます。次々と性質を変える病魔とのつきあいに、いかに当時の人々が悪戦苦闘していたか、新型コロナを体験した今だからこそ、ともに思いを馳せてみたいと思います |
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⑥ 11 月19 日 |
(土) |
宣長と伊藤仁斎 |
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三重大学 遠山 敦 |
宣長は儒家的思考を「漢意」として強く斥けていました。しかしまた、そうした宣長が儒家・荻生徂徠から大きな影響を受けていたことも広く知られています。本講ではそうした徂徠をさらに遡って、伊藤仁斎と宣長の関係を考えてみたいと思います。もっともここでいう「関係」とは、彼らが抱いていた基本的な問題意識に共通するものがあったのではないか、ということです。それは一体何だったのでしょうか。 |
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⑦ 12 月17 日 |
(土) |
宣長の「カミ」観念再考 |
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筑波大学 板東 洋介 |
宣長の独創的なカミ理解のうちでも、禍津日神を穢れと同定し、この世のあらゆる災禍を引き起こす強大な悪神とする解釈は、同時代から批判が噴出し続けた、最も問題的なものである。このやや強引な操作を行なってまで宣長が捉えようとした神話の根本構造とはいったい何であったのかを改めて考察する。 |
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令和5(2023)年 |
⑧ 1 月21 日 |
(土) |
メディアとしての和歌―声と文字― |
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びわこ学院大学短期大学部 榎本 恵理 |
宣長は、『古事記伝』完成を機に、『古事記』中の神や人物を詠み込んだ歌を門人たちに求め、「終業慶賀の歌会」を催しました。(それを『古事記伝』に付載予定でした)。また遺言書に、己の命日に歌会開催を求め、その手順まで詳細に指示していました。この二つの奇妙な歌会、それに宣長が込めた意図は何だったのでしょうか。生涯、和歌を詠み続けた宣長の、和歌に込めた意味を読み解きながら、この問題を考えてみたいと思います。 |
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⑨ 2 月18 日 |
(土) |
「考える」ことば-漢文から和文へ― |
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中部大学フェロー 辻本 雅史 |
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人は言葉で考えます。だから思考は一つの言語活動。宣長は京都での医学修行のかたわら、その基礎としての漢学/儒学を学び、漢文リテラシーを身につけました。江戸期の儒者は漢文で思考していたはずです。ところが和歌は、声に出す和文で構成されていす。和歌にアイデンティティをもつ宣長は、漢文を捨て和文を択びました。『古事記伝』に結実する宣長の国学は、和文を思考言語とした延長線上に創出されたとみることもできるのではないでしょうか。 |
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⑩ 3 月18 日 |
(土) |
手沢本古事記から古事記伝へ |
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相愛大学 千葉 真也 |
京都遊学中の宝暦6年7月、本居宣長は『古事記』の寛永版本を購入しました。そして、この本に宣長は度会延佳の『鼇頭古事記』などとの校合を施し、賀茂真淵などの所説を書き込み、参照すべき用例の所在を記入していきます。本居宣長記念館のサイトで「収蔵品関係史跡」>「主要収蔵品」>「6、宣長の学問」とたどって、「古事記」をクリックするとその本の一部(「古事記」本文冒頭)を見ることができるでしょう。本文の行間や欄外におびただしい書き込みがあることが分かります。この書き込みが『古事記伝』のもとになったのです。と言っても、画像や図録、展示されている実物に目をこらしても、これらの書き込みがどのようにして『古事記伝』に結実するかを知るのは簡単ではありません。文字があまりに小さく、そのうえ、「万二ノ廿七ヲ天地之初時 三ノ廿七ヲ天地之分時」とか「初ノ章(クダリ)日廿二ノ九ウ」と非常に簡潔に書かれているだけだからです。今回は『古事記』本文の冒頭部分の半丁分をすべて翻刻し、『古事記伝』の記述との結びつきを具体的にご覧頂こうと思います。 |
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