1、日 程 |
平成30年
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5月19日
第1講 |
(土) |
宣長著作を実地に生かした菅江真澄 |
菅江真澄研究会 金児 紘征 |
菅江真澄は江戸時代後期に東日本の各地を巡り、その民俗を記録した。真澄は宣長を敬愛し、宣長の多くの言葉を引用している。宣長が文献で調べたことを真澄がいかに実地で確かめたか、その事例をたどる。 |
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6月16日
第2講 |
(土) |
宣長―萬葉のことば三題 |
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廣岡 義隆 |
「萬葉語学三題」としますと何かむつかしいことを話すように聞こえますので、「萬葉のことば三題」としました。本居宣長が提唱したことばに関する三法則が今もその命脈を保ち活用されている実態をわかりやすく検証します。「係り結びの法則」、和歌における「字余りの法則」、漢字音受容における一形態という三項になります。三項目は伊勢の萬葉歌(1032〜33番歌)に関わる事項です。 |
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7月21日
第3講 |
(土) |
契沖と宣長 ―それぞれのその後― |
関西大学 乾 善彦 |
関西大学蔵本百人一首改観抄には、宣長説の書入れが存し、宣長手択本の書入れに一致する。つまり、宣長の言説は、そういった書入れの書承によっても受け継がれている。また、同じく万葉代匠記には、門人今井似閑らによる契沖説の書入れが存する。著述の刊行ではなく、師説書入れによって伝わる二人の言説について考えてみたい。 |
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9月15日
第4講 |
(土) |
『古事記』・『日本書紀』の神話はどのように受容されてきたのか |
帝塚山学院大学 及川 智早 |
奈良時代に成立した『古事記』は、長い潜伏の期間を経て、江戸後期、本居宣長によって発見されたといっても過言ではありません。本講では、その『古事記』、そして『日本書紀』に載録されたイザナキ・イザナミ婚姻譚が、幕末・近代において、どのように受容され、変容したのかを考えてみたいと思います。 |
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10月20日
第5講 |
(土) |
宣長の母の実家・村田家と小津家 |
松阪商人を語る会 大喜多 甫文 |
宣長の母の実家・村田家は、松坂城下町成立期に、近江から松ヶ島を経て、松坂新町に移住した。江戸時代初期に、江戸で木綿店を開業した豪商であった。宣長の母かつは、同家6代孫兵衛豊商の四女である。一方、父の実家・小津家も、松坂近郊の農村から松坂本町に移住した江戸店持ち豪商であった。本講では、両家の盛衰の状況と、衰退期に生きた父母の苦労を、資料をもとに述べたいと思います。 |
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11月17日
第6講 |
(土)
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京都遊学中の師・堀景山について ―その学問観と人物像― |
盛岡大学 高橋 俊和 |
宝暦二年、宣長(23歳)は、家の事情により医学修業を目的として京都に出立する。千年にわたって伝統文化を育んできた京都での五か年半におよぶ書生生活は、青年宣長に、医の学び以外に大きな収穫をもたらした。後に、文学論・語学論・古道論へと展開していく「学問」というものへの目覚めである。宣長の師として、その中心的存在であったのが、京都の儒学者堀景山である。 |
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12月15日
第7講 |
(土) |
『源氏物語』の世界 ―宣長以前、宣長以後― |
皇學館大学 中川 照将 |
『源氏物語』のすばらしさに魅了された宣長は、長年にわたって『源氏』を研究し続け、かの有名な「もののあはれ」論を展開させるまでに至りました。本講では、「もののあはれ」論を根底から支える宣長の『源氏』研究の独自性とその意義について、"年立(年表のようなもの)"と"本文校訂"という二つの視点から考えます。
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平成31年 |
1月19日
第8講 |
(土) |
宣長の出版と文庫設立計画 |
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中京大学 中川 豊 |
寛政6年、宣長は文庫(図書館)設立計画書を郡奉行に提出する。残年ながら設立は実現しなかったが、なぜ宣長は文庫を建設しようとしたのかを『玉勝間』『学問所建設願書』などから探り、資料の利用と保存に対する宣長の態度に言及する。あわせて小山田与清
の「擁書楼
」、羽田野敬雄たちの「羽田八幡宮文庫」といった文庫から、江戸時代の文庫利用規則も概観する。 |
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2月16日
第9講 |
(土)
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宣長はどんな人か ―それぞれとの交流から― |
本居宣長記念館 西山 杏奈 |
宣長って、いったいどんな人なのだろう?
実に抽象的で凡庸な疑問ですが、宣長が残した言葉だけではその本質は探れません。周囲の人々との交流や、本音がのぞく手紙のやりとり、講釈の様子など。宣長が残した言葉に加え、周囲の言動も手掛かりに、本居宣長という人物の性質を考えたいと思います。 |
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3月16日
第10講 |
(土) |
宣長の時代の松阪と文化 |
松本 吉弘 |
蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は楽市楽座や豪商の誘致等の商業振興策に寄って、江戸時代になると商人の街として繁栄を極めた。 財を築いた三井・小津・長谷川・長井・殿村・伊豆蔵等の豪商は江戸時代前期から江戸や京都・大阪に進出していった。これらの江戸店は、日本橋周辺の大伝馬町・本町・駿河町・本石町等にあり、特に大伝馬町一丁目には木綿問屋の一群が軒を連ねていた。宣長が生まれた頃の大伝馬町は、町内にある商家のうち、伊勢国出身者が約六割を占めたという。その中でも松阪出身の商人が圧倒的に多くいた。宣長は、随筆『玉勝間』に「かくて松坂は、ことによき里にて」「富める家おほく、江戸に店といふ物をかまへおきて」云々と述べる。宣長の時代の松阪の文化や庶民のくらしを概観することにする。
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