宣長ミニガイド
◇ 誕生から京都遊学へ
宣長、幼名・富之助は、伊勢国飯高郡松坂本町(三重県松阪市本町)に生まれた。
父・小津三四右衛門定利。母・勝。
家は、江戸店持ち商人。木綿などを江戸日本橋大伝馬町で商っていた。
8歳から手習いを始め、謡曲や貝原益軒の著書などを貪欲に学ぶ。
だが、「商いのすじにはうとくて、ただ書を読むことをのみ」好んだと述懐するように商売には関心がなかった。
十代後半の宣長は「京都」に憧れ、「和歌」への関心を深め、『源氏物語』を読み始める。
行く末を案じた母の勧めで医者となるため、宝暦2年(1752・23歳)3月、京都に行く。
京都遊学は5年半に及ぶ。まず儒学を堀景山に学ぶ。
景山は、朱子学の名門に生まれたが、特に歴史書への関心があり、荻生徂徠の学問や、日本古典にも造詣の深く、平曲を好むという一面を有していた。また、契沖(1640~1701)の著作や蔵書を見る伝手があったことは、宣長の学問形成に大きな影響を及ぼす。後年、宣長は契沖の『百人一首改観抄』を読み、「さっそくに目が覚め」たと回想している。この本の出版に尽力したのも景山であった。
引き続いて、針灸の大家・堀元厚に医書を、高名な小児科医・武川幸順に医術を学ぶ。当時は革新的実証医学である「古医方」と『素問』・『霊枢』を中心とする漢方医学の正統「後世方」(李朱医学)の2系統があったが、宣長の師は「後世方」だった。
◇ 医者を開業する
宝暦7年(1757・28歳)、帰郷して医者を開業し、72歳で没するまで町医者(主に内科・小児科)として働き、生計を立てた。
宣長の基本は、日々の生活の重視。患者が在れば元旦も診察し、往診ははるばる伊勢の宇治まで薬箱をぶら下げ出かけていく。28歳以後は働きづめであった。さすがに63歳の時には、隠居した友人加藤千蔭を羨み、自分は腰の痛いのをさすりながら明け暮れ働いているという手紙を書いている。
70歳の時、松坂の門人・村上円方に贈った歌。
家のなり(業)なおこたりそねみやびをの書はよむとも歌はよむ共
医療も近所、親戚付き合いと言う日常生活をいかにそつなくこなすか。まめやかに努めるかに腐心した。たくさんの記録類は生活のマニュアルであった。そしてもう一つ記録には秘められた意味があった。それは自分の探求という目的のためであった。
◇ 歌会と講釈
昔、松阪では薄暮の頃を「宣長先生の歌詠み時」と言った。薄暗いので細かい仕事は無理だが、歌なら詠める。定めし先生は歌を思案しているのだろう。この言い回しは、宣長の歌好き、また慎ましい生活をよく伝えている。宣長が詠んだ和歌は生涯に約10,000首。家集を『鈴屋集』という。歌は、宣長の楽しみでもあり、また学問の中でも、歌を特に重視した。
帰郷してまもなく宝暦8年(1758・29歳)2月、宣長は松阪の歌会「嶺松院歌会」に入会し、同年夏、その会員らを対象に『源氏物語』の講釈を開始する。歌会と古典講釈は、72歳で没するまで継続し、学者としての宣長の活動拠点となる。
一方、この頃から、日本人本来の世界観や価値観を探求しようと考え、そのためには『古事記』解読が必要であると確信した。
◇「松阪の一夜」
宝暦13年(1763・34歳)5月25日、江戸の国学者・賀茂真淵と対面がかない(松坂の一夜)、やがて門人となった宣長は、もっぱら『万葉集』について手紙で質疑応答を繰り返した。
真淵からの指導と並行して、『古事記』研究に着手し、以後35年の歳月をかけ『古事記伝』44巻を執筆した。
『古事記』は、712年に書かれた現存最古の歴史書。『古事記伝』はその注釈書。『古事記』研究の方法と意義を説き、全部漢字で書かれた本文に読みを付けて、更に背後にある当時の人の思想や世界観まで読みとろうとした。
「まことに古事記は、漢文のかざりをまじへたることなどなく、ただ、古へよりの伝説のまゝにて、記しざまいといとめでたく、上代の有さまをしるにこれにしく物なく、そのうへ神代の事も、書紀よりは、つぶさに多くしるされたれば、道をしる第一の古典にして、古学のともがらの、尤尊み学ぶべきは此書也、然るゆゑに、己レ壮年より、数十年の間、心力を尽くして、此記の伝四十四巻をあらはして、いにしへ学ビのしるべとせり」『うひ山ぶみ』
>>(「ようこそ宣長ワールドへ」の解説ページが、別画面で開きます。)
◇ 宣長の学問
宣長の学問領域は、「物のあはれ」論で有名な『源氏物語』や和歌研究、古道論、漢字音やてにをは研究などの国語学などと幅広いが、その傾向は二つに大別出来る。
まず、和歌を論じて『古事記』に及ぶ流れである。思索の過程は『石上私淑言』に詳しい。
二つ目は、『古事記伝』である。国語学はもとより、国号や暦、天文の考察、吉野・飛鳥紀行『菅笠日記』も、みな『古事記』研究に包含される。
これを川の流れにたとえてみよう。源流は少年期の乱読である。やがて京都や和歌への関心に『源氏物語』が加わり少し大きな流れとなり、そこに「好・信・楽」の言葉で象徴されるような旺盛な好奇心がいくつもの支流として注ぎ込み、やがて『古事記伝』という大河となる。
このように宣長の関心の推移は、非常に明確である。
◇ 物のあはれを知る
宣長は、揺れ動く人の心を、物の哀れを知ると言い、歌や物語は物の哀れを知ることから出てくる物であると言っている。たとえば、宣長が高く評価した『源氏物語』も、「この物語、物の哀れを知るより外なし」と言っている。文学はそのような人間の本性に根ざしたものであり、そこに存在価値があるとした。◇「師の説になずむな」
宣長は、師真淵の教えとして、
「つねにをしへられしは、後によき考へ出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはばかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也。」『玉勝間』と言っている。また、知人で伊勢神宮神官・荒木田経雅に宛てた書簡(安永7年6月24日付)に次のような一節がある。
「一、先達而申上候麻笥、鈴ノ事、御不審御座候ハハ、幾度も可被仰下候、ケ様之事ハとかく数へん往復仕り候へば、段々よき考へ出申し候物ニ御座候ヘハ、無御遠慮いく度も可被仰下候」
宣長の業績の一つに、学問する者の基本姿勢を提示し、実践した事がある。たとえば、今では常識となっている、資料は公開されなければならないとか、研究成果は発表し、活発な議論と論争が学問を進めていくとか、学問は一人の力では完成されるものではないとか、その上に立っての学問の継承について、宣長のように明言し、実践した人はそれまでにはいなかった。これらの主張は、晩年の随筆『玉勝間』や『うひ山ふみ』に詳しく書かれている。また、78種206冊3表に及ぶ著書と、門人や知人に宛てた1050通の書簡、上田秋成(1734~1809)との激しい論争は、その実践である。
◇ 出版の勧め
宣長の学問は出版文化の恩恵に浴している。契沖や賀茂真淵の名前を始めて知ったのも、また『源氏物語』も『古事記』も、すべて刊行された本によってであった。
ただ当時の本は刊行部数が少なかった。『百人一首改観抄』の入手にも大変苦労し、またその他の契沖や真淵の本も大方は写本で読んだ。その経験から本は出版されなければならないと考え、また実行した(『玉勝間』巻2「ふみども今はえやすくなれる事」・巻1「古書どもの事」)。江戸時代に刊行された宣長の本は50種、その内、生前刊行は30種に及ぶ。
◇ 学問をする歓び
安永9年(1780・51歳)、松阪の宣長を訪問した名古屋の田中道麿は、係り結びの法則を聞かされ、次のように云っている。
「此折り本(『てにをは紐鏡』)十ヶ年以前に出し給へるを、それより此かたも、よりより見ざりしにあらず、見は見ながらとくと得られざりしを、此春、玉の緒を見奉りてより、大かた得られて、大にあきらけくなりぬ、此ごろは、夜のねざめも専ら古歌にあてて見るに、悉違ふ事なし、神代より今に及びて、かくてにをはは違はぬ物なるをと、いといとたふとくなん、(中略)もし人ありて問ん、てにをはをしれりやと、道丸答えてしれりといはん日もあらん、又しらすと答ん日もやあらん、されど心の底には、不知としも思はじ、然るを、今日と成て、去年を思へば、実には其事しらすてくらし来りし也、然るを、此春、松阪より帰りて後は、誠に誠に其事しれる道丸と生れ替りたり。(宣長)てにをはの事の玉へる条々、ことごとく当れり、己れ多年此事に心をつくし、自然のてにをはの妙所を見出たるに、誠に然りと信する人、天下にありやなしや、よし知る人なくとも、道麻呂主一人己か功を知り玉へは、己か功むなしからずと、悦ひにたへすなん」
松阪で宣長に会い、生まれ変わったような強烈な感動を道麿は体験した。
当時の社会では、日本の古典研究を生活の糧とすることは現実的には無理であった。宣長のように医者をしながら学問をするか、もし研究一筋で行くならば、よほどの困窮生活を覚悟し、あるいは、誰かの援助を仰がねばならなかった。しかし、いずれの場合でも宣長やその下で勉強した人々からは、「学問をする歓び」が感じられる。
◇ 宣長のライフサイクル
宣長は200年も前の人だが、そのライフサイクル〔人間の生活周期〕は驚くほど私たちと似ている。たとえば、5年余の遊学は、今で言うなら大学生活だし、
30代前半での結婚と子供の誕生、30代半ばで、本業(医者)とは別に『古事記』研究というライフワークを見つけて、60歳からはライフワークに専念する。72歳の逝去は今ではいささか早いが、大きな違いはない。宣長の生涯には、子供の失明や、娘の離婚という不幸はあったが、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』などの主著の執筆、刊行のめどが立ち、紀州徳川家での御前講義も行い、全国に500名の門人がいて、仕事面では幸せであったのではないだろうか。
「ただ本居家においては、収入が多ければそれだけ支出も嵩み、蓄積がほとんどできぬまま、生活に追われた家業経営がいつまでも継続する。それは、学者にありがちの、脱社会的な小安居の世界ではない。貧窮を時には吐露しながら、生活規模を縮小せず、収支の額面が常に大きく持続しているのは、本居宣長の生活力の大きさを示しているように思われる。」
「本居宣長の簿記と家業経営」
北原進(『本居宣長全集』第19巻)
>> 本居宣長「履歴書」
◇ 桜と鈴
「花は桜、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきがまばらにまじりて、花しげく咲きたるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」『玉勝間』「花のさだめ」
宣長のシンボルは桜と鈴である。桜は一人の人としての象徴であり(宣長は吉野水分神社の申し子として生まれ、墓の上には桜が植えられている)、鈴は書斎名「鈴屋」に象徴されるように学者としてのシンボルであった。