【内容】
今日、『源氏物語』の価値を疑う者はいない。しかし、それが単にいにしえの宮廷風俗の雅(みやび)を伝えるだけでなく、人間普遍の人情を描き得た作品であることを述べたのは本居宣長であった。宣長はそれを「もののあわれ」という一語に凝縮して説いた。
「もののあわれ」は恋において最も強く表れ、『源氏物語』の恋のなかで最も強くそれを表すのは、光源氏と継母藤壺との禁断の恋であるという。この見解は今日でも訂正を必要としない。
しかし、近代になって、皇室の「万世一系」を強調する皇国史観の立場からは、『源氏物語』の「もののあわれ」の源泉とも言うべきそのストーリー、光源氏と藤壺の恋のみならず、二人の間に生まれた子(冷泉帝)が即位するというストーリーは、激しい糾弾に遭うことになる。太平洋戦争前の国粋主義横行時代には、『源氏物語』は教科書から閉め出され、「不敬」の書のレッテルを貼られるにいたった。
文学の立場から、そのような国粋主義の不当を言い立てることは易しい。しかし、なぜそのようなストーリーが、平安時代の宮廷社会で書かれ、そして時の天皇の耳にも達するという評判を取ったのか、という問題は、それでは解決できない。
フィクションとはいえ、平安時代の宮廷社会において皇位継承の尊厳を損なうような物語は、なぜ書けたのか。それは、作者の頭に浮かんだ想像と創作なのだろうか。しかし、それは単なる想像や創作の結果ではなかった。
私見では、そのストーリーは、その時代に共有されていた過去の皇位継承をめぐる暗黙の了解に沿って構想されたものであり、だからこそ、驚くべきストーリーは許され、世に迎えられたのだと考えられる。
「過去の皇位継承をめぐる暗黙の了解」とは、『源氏物語』から1世紀前に起こった皇統の交替、すなわち陽成天皇からその祖父の弟光孝天皇へという、日本歴史上まれに見る不可解な皇統交替をめぐる風説である。
この皇統交替は、日本史研究者の間では早くよりその重大性が指摘されてきたが、国文学者の間ではその問題が正面から追求された事はない。『源氏物語』先立つ物語『伊勢物語』の解釈を援用しながら、『源氏物語』が抱える上記の問題を読み解いてみたい。
【講師:今西 祐一郎先生】
昭和21年(1946)、奈良県生まれ。昭和49年(1974)京都大学大学院博士課程中退。静岡女子大学、京都府立大学勤務を経て、昭和60年(1985)九州大学助教授、のち文学部長、理事・副学長、附属図書館長等を歴任。平成21年(2009)、国文学研究資料館館長に就任、同29年退任。九州大学、国文学研究資料館名誉教授。
専門は日本古典文学で、平安時代の文学史。『古今集遠鏡』(東洋文庫)では、宣長の古今和歌集注釈書『古今集遠鏡』を注解した。主な著書に『源氏物語覚書』(岩波書店)や『蜻蛉日記覚書』(岩波書店)、『死を想え ―『九相詩』と『一休骸骨』』(平凡社)などがある。
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