小林秀雄『本居宣長』など


 『小林秀雄全作品』第27巻、28巻「本居宣長」(上、下)が刊行された。各2,000円(税別)。新潮社。昭和52年の「備前徳利」から同57年の「「流離譚」を読む」まで収録。簡略な脚注がつく。「本居宣長」、江藤淳との対談「「本居宣長」をめぐって」、「本居宣長補記T、U」など巻末に「小林氏「本居宣長」感想」保田與重郎(第27巻)、「小林秀雄『本居宣長』」福田恆存(第28巻)を載せる。

 小林の『本居宣長』に触れた評論を見かけたので紹介する。
 一つは橋本治「小林秀雄の恵み(五)」(『新潮』2005年1月号)で、もう一編は茂木健一郎「脳のなかの文学」第十回「愛することで弱さが顕れるとしても」(『文學界』2005年1月号)。
 橋本氏には、早い時期に本書について論じた文章もあるが、例えば、「小林秀雄が新刊の『本居宣長』を送ってきたとき、ちらと書名と著者名を見られた切りでふたたび手にされることはなかった、と森翁の近くにあった編集子より聞いた。真淵あるいは宣長を論じる学識器量の人物は現代に見当たらぬと、森翁は常々口惜しく思案されてあったからだろう。」(「人に実あり」加藤郁乎『ユリイカ』1997年6月号59頁)のように否定することが格好いいとか、また良識だという風潮の中で、この二編は、自分の目で読み、考えたものとして貴重。
 なお、茂木氏は丸谷才一氏の文章(『袖のボタン』朝日新聞2004年11月9日付朝刊)を引き、「かなりの程度的を射ているのだろう」と書かれるが、「この国学者にとって生涯を通じて大切なものであった『新古今』との関係をないがしろにし、墓の作り方の話に熱中したり」という丸谷氏の論評はいかがなものか。『新古今』も、「墓」も同等の意味を持つという立場を取らないと、宣長は理解できないのではないだろうか。

2005.1.9