宣長の不思議   

1、若き日の本居宣長

 本居宣長(もとおり のりなが・1730〜1801)は、国学者、つまり日本古典の研究家です。松阪の町で昼間は町医者をしながら、暇を見つけては日本の古典やことばを研究し、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』、『菅笠日記』、『玉勝間』等たくさんの本を書き、また当時の五十音図で、「オ」と「ヲ」が逆になっていたのを入れ替えたり、「日本」という国の名前について考えたりとたくさんの業績を残しました。

2、運命の出会い!「松坂の一夜」

医学修行を終え、松坂に帰ってきた宣長。昼間はお医者さんとして働き、夜は国学の勉強をしていました。
ちょうどその頃、宣長は『冠辞考』という本を読み、衝撃を受けます。
ある日、宣長は真淵が松坂に来ていることを知ります。
「真淵先生にお会いしたい!!」
宣長は真淵が泊まっていた宿「新上屋」へ押し掛けました。
そして、生涯でたった一度だけ、真淵と対面することができたのです。
この出来事を「松阪の一夜」と言います。
この後、宣長は真淵の弟子となり、手紙のやりとりをして勉強しました。


3、「鈴屋」(すずのや)

53歳の時、宣長は家の2階に書斎を増築しました。
この書斎の名前が「鈴屋」といいます。
今では宣長の家を「鈴屋」と呼んでいますが、正確には、この書斎の名前だったのです。
なぜ「鈴屋」というのか?
宣長は鈴が大好きだったからです。勉強に疲れると、音を聴いて癒されたといいます。
宣長が考えた鈴「柱掛鈴」を、いつも書斎に掛けていました。この鈴にちなみ、書斎を「鈴屋」と名付けたのです。


4、宣長はお医者さん

京都から松坂に帰ってきた宣長は、家で町医者を始めました。家の1階にある「店の間」が診察所です。
でも、ほとんどは往診をしていました。
患者さんがいると聞くと、遠くは伊勢まで通ったそうです。ちなみに松坂から伊勢までは約25qあります。
往診に行くときは「薬箱」を持っていきました。中が三段に分かれていて、小さな薬包がびっしり詰まっています。
この箱、かなり重いです。これを持って伊勢まで歩くとは・・現代人では考えられませんね。


5、日本を見つめる

宣長は地図や系図が大好きでした。記念館には、宣長が描いた地図も多く収蔵しています。
「大日本天下四海画図」もその一つ。宣長が17歳の時に描いた、大きな日本地図です。
形がいびつですが、あたりまえです。この地図は、伊能忠敬らが正確な日本地図を作る70年も前に描かれたものですから。
宣長はいつも「日本」を見つめていたのです。


6、宣長デザイン「鈴屋衣」

教科書でおなじみ「本居宣長六十一歳自画自賛像」。
ここに描かれている宣長が着ている、変わった着物。
「鈴屋衣」という、宣長オリジナルの着物です。
この「鈴屋衣」、宣長が着ていたものが残っています。修復していただきましたが、劣化が激しく、展示できません。
今回は、修復の時に作っていただいた、本物そっくりの複製品を展示いたします。
「この着物を着て、宣長は和歌山城のお殿様に講釈をしたのだなぁ・・」
と、思いを馳せてください!


7、宣長の著作

刊行された宣長の著作は、全部で50種類あります。
宣長は著作を出版することに励みました。
本を出版すると、大勢の人が自分の研究を知ることが出来る。宣長自身も、出版された本によって契沖や真淵を知った事実からくる思いでした。
宣長著作の表紙は、宣長好みの縹色(水色系の色)、綴じ糸は紫色・・と、宣長好みの装丁でした。


8、お墓もデザイン!宣長の晩年

宣長は亡くなる一年前、息子にあてた遺言書を作成しました。
この遺言書も宣長独特のものでした。普通なら残された家族にあてて相続などを書くものですよね。
でも宣長は、葬式の仕方やら、自分の戒名やら、はては宣長個人のお墓まで、図入りで指示したのです。
また、宣長は自分のお墓を建てる場所を、自身で探しました。そうして見つけたのが山室山。
実際に宣長個人のお墓「奥墓」が、山室山にあります。遺言書通りの形の墓石に、山桜も植えてあります。


9、宣長と物語

宣長は物語が、聞くのも書くのも作るのも大好きでした。
「忠臣蔵」今でも好きな方はたくさんいらっしゃいますね。宣長の時代も同じ。宣長もお寺でこの話を聞き、家に帰って聞き覚えた話を書き記したそうです。(『赤穂義士伝』)
「忠臣蔵」以外にも、この時代、「偽紫田舎源氏」という「源氏物語」のパロディー本が大流行していました。
宣長も負けてはいません。光源氏と六条御息所のなれそめを描いた作品を残しています。
「源氏物語」の研究著書を書いただけではないんですね。


10、大作!「古事記伝」

宣長が世に押し出したのは「源氏物語」だけではありません。
宣長は「古事記」にも、再び光をあてました。
「古事記」の注釈書である「古事記伝」。この本を仕上げるために、宣長は、様々な分野の研究をしました。
「源氏物語」そして和歌から見いだした「もののあはれ」論、「古事記」の校合に、「天地」の読み方について、さらには日本という国号のことまでも。
今でも「古事記」研究の第一級資料である「古事記伝」。こうした研究の努力が「古事記伝」44冊へとつながっていったのです。


11、宣長と和歌

和歌は教養の一つであり、町の人とのコミュニケーションの場でもありました。
宣長も歌を詠むことを好みました。いくつかの歌会に出席し、町の人たちと楽しく過ごしています。
ときには歌会の途中、皆でうどんを食べたりもしました。
また、歌会の参加者たちが集い、宣長の講釈が始まります。
歌会が、その後の宣長の活動拠点となっていったのです。