展示品解説

◇壁面展示・◎国重文・○県有形・☆初出品

2,「松阪の一夜」
9,◎『古事記』3冊 
 『古事記』は奈良時代、712年に稗田阿礼と太安万侶により書かれた現存最古の歴史書。宣長は京都時代の宝暦6年(1756・27歳)に『先代旧事本記』と一緒に本屋で購入した。同年、師・堀景山から貰った『日本書紀』を校合し、『万葉集』を購入。つまり古代研究の基礎文献はこの年にすべて手元に揃った。古代への関心の芽生えた年である。しかし宣長が『古事記』が最も重要であるとの確信を得るにはさらに数年の歳月が必要であった。展示は下巻、仁徳天皇の太后が豊楽のために御綱柏を紀伊国に採りに行った条。このあと大騒動が起こる。上に記す「三十六」は『古事記伝』巻36に注釈のあることを意味する。宣長は「御綱柏(三角柏)」についても丹念に調べる。
10,◎『万葉集問目』17冊
 賀茂真淵に入門した宣長が、師に送った質問書。カタカナ混じりの楷書で丁寧に書くのが宣長の質問。その間にさらさらと書くのが真淵の答え。約5年間継続。質問数は約1,000項目に及ぶ。展示は「一二三四万葉再問」。「○忘貝ハイカナル貝ヲ申シ侍ル」の質問に、「此貝物産者流の説はあれど必と信ずべくなし、いまだよくしらず、辺地の海人などにとはば得る事もあらんか」と回答する。(全集本2)
11,◎◇「賀茂真淵添削宣長詠草」1幅
 宣長は、賀茂真淵に入門後、『万葉集』だけでなく歌の指導も受けた。だが、『新古今集』などの後世風を好む宣長の和歌は『万葉集』を第一とする真淵に認められず、時に「万葉の御問も止給へ」と厳しい叱責を受けることもあった。結局、宣長の和歌の好みは生涯変わらなかったが、真淵に送る詠草はつとめて万葉風としてからは、師の怒りもややおさまった。この添削詠草の評は「何とやらん後世風の調をはなれぬ様也」と、あいかわらず不満げだが、言葉つきも穏やかになっている。
12,◇「荒木田久老懐紙」1幅    【永井謙吾氏寄贈】
 久老(ヒサオユ・1746〜1804)は神宮祠官。宣長と共に賀茂真淵門で、『万葉集』研究に生涯を捧げた。豪放磊落な性格と言われるが、宣長に毎年歳暮を贈るなど律儀で几帳面な性格。それだけに、宣長が遠慮無く真淵説を批判することを久老は批判している。「みやこ鴨河のやどりにて、あらき田神主久老、やとしなれし露のよすがもわすれすばまたもあはたのやまの端の月」
13,◇☆「本居宣長書簡」1幅  加藤千蔭宛
 宛名は無いが、文面から寛政10年(宣長69歳・千蔭64歳)江戸の加藤千蔭宛の書簡と推定される。千蔭は、その父と共に賀茂真淵の門人。幕府の役人であったが職を退いてからは『万葉集略解』執筆に努力し、一巻成るごとに宣長の指導を仰いでいた。展示書簡にも「万葉御解十六ノ巻、拝見しました・・例によって私見を書き入れ本を汚してしまいました」とある。またこの書簡で見逃せないのは、巻16「竹取翁の歌」の所に、近々、荒木田久老のこの歌の付いての注釈が出るが、その見解の一つ二つをかきいれたのでもし採用していただけるなら久老の名前を出してあげて下さい、と書き添えたところ。国学者間の麗しい交流がうかがえる。本書簡は、日付と自署の後に宛名無くすぐに尚々書が始まる。活字で見ている分には疑問も生じないが、実際のものを見ていただくと、切断形跡のないことが確認できる。つまり最初から宛名がなかった、もしくは尚々書の後に宛名があったという宣長書簡ではきわめて異例の形式であることがうかがえる。【購入資料】
14,☆「荒木田経雅書簡」1通  
 安永7年(1778)7月、伊勢内宮の神主・荒木田経雅(ツネタダ・1742〜1805)は宣長に「当地産刀禰やそうめん」1折を贈った。書簡ではその後に「件索麺調方」(件のそうめん調え方)という別称を設けて調理方法を教えている。

>>「到来物」

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