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 明和2年(36歳)12月の宣長
 歳暮の歌  煤払い
 鯨汁を食べにこい  大晦日鏡供え


 明和2年(36歳)12月の宣長 

3日、夜、須賀直見家歌会。
4日、『続古今集』大本で校合終わる。
5日、煤払い。この日の夕食は恒例の「くじら汁」であろう。
6日、遍照寺会。
10日、講釈。年内最終講。
11日、嶺松院会。
21日、賀茂真淵、宣長宛書簡執筆。
26日、餅つき。(明和6年の記事から推測)


 歳暮の歌 

    述懐
定なきうき世のわざにほだされて
        長き闇路はいかむとすらん(19歳) 
    歳暮
今年をばことしといふは今日計
      明日は去年とて遠く過なん(同)
    歳暮
おひてのみ惜しき物かは年の暮
      わかきも同じ心なりけり(21歳)
    としのくれによめる
なほざりにくれぬくれぬといひし日も
      つもれば年となりにける哉(70歳)
過ぎぬれば長き春日も秋の夜も
      みじかかりけるとしのくれかな(同)
    としのくれによめる
故郷にかへらん春を思ふとて
      くれゆく年もをしまれぬかな(71歳)
としのくれをしむいとまもなかりけり
      ただ故郷を思ふ心は(同)
もちひつくとなりの音もふるさとの
      いそぎ思はすとしのれ哉(同)

 煤払い 

 煤払い(煤掃き、煤取り、煤納めとも)は、年の終わりを締めくくる行事だった。今の大掃除である。江戸時代には、宮中・武家ともに12月13日に行うことが多く、庶民もこれにならい、同じころに煤払いをした。
 また、地方によっては、煤払いのあとで「鯨汁」(鯨の白身を汁に仕立てたもの)を食べる風習もあったようである。
 『玉勝間』巻12「年のくれの煤払い」には、『中原康富記』の宝徳元年(1449)12月20日と、中御門宣胤卿の記の文明12年(1480)12月9日のそれぞれに、禁裏御煤払の記事があると書かれている。


 鯨汁を食べにこい 

 5日付与三兵衛宛宣長書簡。文面は「与三兵衛殿、春庵、夕飯にくじら汁致し申し候、御出可被成候、以上」。江戸時代は煤払いの時に食べたというから12月5日か。与三兵衛は弟の村田氏ではなく出入りの者であろう。


 大晦日鏡供え 

 大晦日には神棚、仏壇に鏡餅を供える。その覚えが「大晦日鏡供へ覚」である。
 覚えは2通ある。内容はよく似ているが、2通目のは「道啓居士」(宣長)、「恵鏡大姉」(妻・勝)、「道永」(春庭)が加筆されていて、恐らく春庭妻・壱岐が加筆しながら使ったものだろう。
【データ】 「大晦日鏡供え覚」1幅1枚。巻紙、軸装。(1)楮紙巻紙。縦15.5糎、横83.5糎。巻首「備え鏡覚」。 (2)軸装。楮紙。第一紙、縦15.7糎、横72.0糎。第二紙、縦15.7糎、横7.2糎。
【参考】宣長が大晦日に神棚及び仏壇に供えた鏡餅についての覚書。家の宗教、また慣習を蔑ろしてはならない(『玉勝間』)と云う主張の実践。(1)は戒名の追記から明和5年には既に出来か。(2)は、戒名から寛政12年末の成立と推定される。(1)は洋紙封筒に入る。上書は「供へ鏡の覚、春庭筆、壱通」、裏は清造の住所印。但し、明和5年以前の成立説と春庭筆とは合致しない。
【箱書】「大みそか鏡供への覚え、宣長の書記」、蓋裏「宣長翁の筆なり、但し後半の改補は翁および春庭翁の没後つぎつぎに加へらたるなり、清造しるす(花押)」。
【翻刻】『本居宣長全集』。



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