midashi_o.gif 大平、養子となる

l_o3

 寛政11年(1799)2月、稲懸大平(44歳)を養子とする許可が藩から下りた。
 願い出る宣長はこのように言っている。

 「私弟子大平と申者、松坂出生町人ニ而御座候所、実体成者ニ而、幼年より学問執心ニ罷在、格別心懸宜出精仕、和学歌学共段々上達仕候、私義不被召出已然より厄介同様ニ仕、取立遣候処、昼夜随身仕、他出等之節も暫も不離附添居候而、此度之出府ニも召連罷越候候事ニ御座候、私義段々年罷寄候ニ付、此上猶以介抱致貰ひ申度御座候、右之通幼年より倅同前ニ仕、不便を加、年久敷随身仕候恩義も厚ク御座候付、厄介ニ仕遣度御座候間、格別之御慈悲を以私厄介ニ被仰付被下候様仕度奉願候、以上」
  私の弟子大平は松坂の町家の生まれですが、真面目で、幼年の頃から学問に熱心で、人並以上によい心掛けで、努力し、和学も歌学びも段々上達してきた。私も紀州藩に召し抱えられる前からこの大平を、家族の一員のようにして目をかけてきたが、それに答えて、大平も昼夜私の傍にいて、余所に行く時も少しの間も離れず、今回の和歌山行きでも同行してもらった。私も年を取り、これからは面倒も見てもらいたいと思っているが、このように子どもの時から息子同前に扱い、大平には不便な思いをさせて、長く仕えてくれた恩義もあるので、厄介として家に入れたいと思います。格別の慈悲で許可をお願い致します、と言う文面だ。

 同年2月29日付、土屋安足差出宣長宛書簡で、大平を宣長の厄介とする許可が下りたことが報じられる。そして「大平生義、町方之戸籍を離、御家族ニ成候事ニ付、諸事右之通御心得御取扱可被成候」と書く。土屋は通称惣五郎、紀州藩奥御祐筆、大御番格である。
 以後、「親類書」への加筆、大平とその妻の寺請状や送手形など手続きが終わったのは3月であった。
 3月1日、本居家で内祝いが行われた(同日春村宛宣長書簡)。これは大平入家に伴うものであったと思われる。
 3月15日、長瀬真幸宛書簡に、大平が「此度拙者家族ニ相成」と報告される。
 寛政12年正月3日、宣長は机を大平に譲る。事実上の学統継承である。


>>「稲懸茂穂」
>>「机」
>>「大平の気持ち」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる