midashi_o.gif 源義経の伝承(ミナモトノヨシツネノデンショウ)

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『菅笠日記』の第5日目、宣長一行は、吉野水分神社の前を通り、金峰神社に参詣した。
 「日記」では、「 金御峯神社、いまは金精大明神と申て。此山しろしめす神也とぞ」と書かれている。
 山号寺号を山門に掲げる寺院と違い、神社には社名などを記す扁額がかかっていないことが多いので、
神社名は揺れがあった。話は逸れるが、宣長の氏神さん御厨神社の扁額は、宣長が寄進している。

  >> 御厨神社

 この旅の二日目にも
「岡田別府などいふ里を過て、左に近く、阿保の大森明神と申神おはしますは、大村神社などをあやまりて、かく申すにはあらじや」
と伝承を疑っている。現在は宣長の推測通り、大村神社と決し、要石のある、つまり地震除けの神様として親しまれている。
 
 さて、吉野奥千本にある金峰神社。社務所の左、釘抜門から下ると蹴抜塔があった。
「日記」には、
「 このお前をすこし左へ下りて、けぬけの塔とて、ふるめかしき塔のあるは、むかし源義経が、かたきにおはれて。この中にかくれたりしを、探し出されたる時、屋根を蹴放ちて、逃げ去にける跡などいひて、見せけれど、すべてさることは、ゆかしからねば、目とゞめても見ずなりぬ」
と記述される。義経伝説の蹴抜塔など興味がないので通過したというのだ。
 義経の伝承などは、宣長の時代には掃いて捨てるほどあったはず、
関心外というのも、さもありなんといったところか。
 安徳天皇と三種の神器の一つご宝剣を海に沈めた張本人義経にも、
憎しみを持っていたとも考えられるが、
一方では、依頼に応じてせっせと「常盤雪行図」への賛も行っている。
  さて、源義経伝承について、法制史家・嵐義人先生に、

「山びと義経の徴証−語りから実像へ−」
 
という、すぐれた考察がある。
義経伝説という観点からはもちろんだが、
吉野と鉱山資源、そして源義経、
あるいは倭建命から丹生の水銀まで、
伊勢や宣長という視点からも興味の尽きない一編である。
本稿は、『図説源義経 その生涯と伝説』(河出書房新社)に掲載されたが、
同書は現在品切れのために全文を引用する。但し、写真などは省いたので、ぜひ図書館などで原本をご覧頂きたい。

 

>> 「常盤雪行図」
>> 「山びと義経の徴証−語りから実像へ−」



(C) 本居宣長記念館


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