和歌

 「おのが物まなびの有りしやう」で、

「十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき」(『玉勝間』巻3)
と回想するように、和歌への関心の芽生えは、17、8歳であった。
 18歳の11月14日、『和歌の浦』第1冊を起筆する。本書は和歌の学習ノートである。
 翌、寛延元年(1748)1月、初めて「春立心」を詠む。
「寛延元年戊辰、詠和歌、清原栄貞(「本居」自刻印)、 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける、
 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空」(『栄貞詠草』)
『(今井田)日記』寛延2年の条に「△去辰ノ年ヨリ、和歌道ニ志、△今年巳ノ年ヨリ、専ラ歌道ニ心ヲヨス」とある。

 京都時代には、友人に対して、
「僕の好む所、文辞よりも甚だしき者あり。和歌也。啻に之を好むのみならず、亦た之を楽しみ、殆ど寝食を忘る。足下の和歌を好まざるは、其の楽しみ為るを知らざる故也、請ふ嘗(ココロ)みに足下の為に和歌の楽しみを言はん。心を和に遊ばしめ、而うして物に大同し、六合に横たわりて、而うして逆らふ物無く、宇宙万物は、猶藩牆の物の如き也、心に任せて致さざるなし」
と言う。

 この和歌への思いは生涯変わることはなく、歌を詠むことは宣長の生活の中にしっかりと根ざしていった。歌は、楽しみでもあり、町人との接点でもあり、また、学問の中でも、歌を詠むことは特に重視された。そして、嶺松院歌会で知り合った人たちに『源氏物語』の講釈を開始し、これが鈴屋社中の萌芽となる。

 宣長が生涯に詠んだ歌は約10,000首に及ぶと推定される。家集『鈴屋集』、編年体歌集『石上稿』の外に、『自撰歌』、『鈴屋百首歌』、『枕の山』といった歌集もあり、また『菅笠日記』など紀行文中にも歌は載る。


> >「もののあわれ」
> >『源氏物語』
> >「藤原定家」
> >「頓阿」
> >『草庵集玉箒』
> >『古今選』
> >『鈴屋集』
> >『石上私淑言』
> >『古今集遠鏡』
> >『新古今集美濃の家づと』
> >「歌会」



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる