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「田中道麿像」
原本、本居記念館所蔵。
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享保9年(1724)〜天明4年(1784)10月4日。61歳。美濃国多芸郡榛木村(岐阜県養老郡広幡村大字飯木字居村)に生まれた。家は農業を営んだ。子どもの頃から読書が好きで、読む本を求めて大垣俵町の本屋平流軒に奉公したと言う伝説もある。また、故郷を出た道麿は、駕籠を担ぐなどして生計を立てていたとも言う。
近江国彦根(滋賀県彦根市)の大菅中養父(オオスガ・ナカヤブ)という賀茂真淵の門人と知り合い日本古典を学ぶ。その後、宝暦9年(1759)、道麿36歳頃には既に尾張国に住んでいたことがわかっている。安永の始め頃から桜天神で和歌や国学の塾を開き(『新修名古屋市史』)、門人も出来た。古典の中でも専ら『万葉集』などを研究した。
安永6年(1777)7月、松坂を来訪。同9年(1780)5月にも再訪。この時門人となる。
『玉勝間』のなかで宣長は、道麿は、自分より年長だったが、入門してきて、二度三度は松坂まで勉強しにやってきたし、普段は手紙で質疑応答を繰り返していたが、この人ももう亡くなった。だが、名古屋の日本古典の学問は、道麿の努力で始まったのである、とその努力と功績を讃える。
道麿像の筆者は不明だが、賛は、道麿十七回忌の時の宣長の歌である。
懐旧 さそはれし時雨の雲の跡とほく年のふるにも袖はぬれけり 宣長
また、その逝去を聞き春庭(22歳)が詠んだ追悼歌が残る。
歌は
「田中道麻呂の君身まかりたまふときゝてよめる 本居春庭
人皆のかばかり惜しむものぞとも知らずて君は過ぎにけらしも
世中のことにしあればと思へども落つる涙は留めかねつも
我せこは誠死にきや今も世にますと思ほゆ誠死にきや 」
宣長が言うように、名古屋の国学者で主要な人は道麿門である。
その一人、起宿の加藤磯足は師の小伝を書いている。『しのぶぐさ』という。文化3年5月に成った。
【参考文献】
『本居宣長稿本全集』(1-754)。
>>「田中道麿の訪問」
>>「尾張国の門人」
>>「真淵先生の書簡を贈る」
>>「加藤磯足」
(C) 本居宣長記念館
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