行為は一度でも、新しい意義付けは何度も繰り返される。
13歳の旅は、実感としては、「若くて記憶していない」(『菅笠日記』43歳)、事実としては『家のむかし物語』(69歳)の記述通りだが、心の中でのとらえ方は変化する。
宣長に、吉野水分神社の申し子としての自覚の芽生えてきたのはいつだろう。母が繰り返す話が、いつしか宣長の中で大きく育っていった。
この旅は、やがて御嶽詣でから、お礼参りの旅と位置付けられる。
その最初は、『日記』表紙裏に書かれる次の文章だ。
「嘗父定利嘆無子而祈嗣於和州吉野山子守明神誓曰若生男子其子至十三歳即自供使其子参詣願望不虚室家有妊産男児然所誓不遂父早逝矣児至十三歳随亡父宿誓参詣彼神祠賽謝焉」、
「亡き父の宿誓に随い、かの神祠(吉野水分神社)に参詣し賽謝する」 と書かれる。
書いた時期は不明だが、19歳頃、今井田家養子の前ではないかと推定される。成長して意識が変わったのだ。
『本居氏系図 本家譜』でも、「同二年壬戌七月詣吉野水分神社、報賽先人祈請、時十三歳也」 と、お礼参りのことだけが記される。
菅笠の旅の時、社頭に立った宣長の脳裏に浮かんだのは、父母の思い出であり、そこからの連想としての13歳の旅であった。
>>「大峰山参り」
>>「父と母」
(C) 本居宣長記念館
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