midashi_b 書斎の鏡

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 文化元年(1804)、松坂を再訪し、奥墓参拝を済ませた飛騨の国学者田中大秀は、折から滞在中の広島の橋本稲彦と宣長遺品を拓本に採った。その中に、遺愛の鏡がある。懐中用程度の小さなものであり、文鎮兼用であったのかもしれない。
 学者と鏡、この取り合わせをいぶかしく思われるかもしれないが、実は宣長の机の近くには鏡が置かれていた。師の没後に鈴屋の書斎の整理に通った門人青木茂房は、書斎の本棚と机の傍らの鏡を歌に詠み、亡き師を偲ぶ。記念館に収蔵される『門人哀傷歌』と題した包みの中の詠草(縦17.5cm、横46.5cm)から引く。

「師の君なくなり給ひてのちもたまへりし家の書ともをとりしたためてをさめさせ置などせんとて高蔭ぬし大平ぬしとともに十一月二日ころより日ことにまゐりて見あつかふに御机のかたはらにならべて書棚のしるしにあさよひにとりいつる書と次第して入れおき給へるもあればかく思ひつゞけゝる

 あさよひに見ましゝふみをこのごろの 
             あさよひにきてみるぞかなしき

又御つくゑのわたりにおきてもてあそび給ひしかゞみを見ゐでゝ

 なき君のかげはとまらでいたづらに
             月日うつろふますかゝみ哉  茂房」
 宣長の時代、宝暦から明和にかけて日本は金属鏡からガラス鏡への過渡期であったが、その愛用の鏡が金属鏡であったことが田中大秀が残した記述と拓本により明らかとなった。高山市郷土館(高山市上一之町75番地)香木園文庫収蔵の『那岐佐能多麻』1冊は大秀自筆の文化甲子秋の松坂紀行である。

 大平による特に事実関係の添削と書き入れ多く、その松坂での見聞記事は信頼に足ると見てよい。滞在中、殿村安守から宣長遺愛の八花稜鏡を見せられた大秀は、日記に「古き鏡」と書いた。それを、大平は新しいものであると訂正(「故大人の鏡古きにあらず新鏡也」)し、本文は「めてたき鏡」に改められた。拓本の注書きもその後の加筆であろう。
 この鏡は、八花形の形から、また新しいことから、寛政6年若山からの帰りに購求したものであろう。

   「〃(銀)八匁 八花形鏡 同断【先生御懐中より】」
        (『寛政六年若山行道中小遣帳』 宣長全集・16-538)

 本居宣長と鏡、もしくは鏡的な存在、あるいは自己観察と言ってもよい、それが宣長を理解するための重要な手がかりとなると私は考えている。例えば、宣長の自画像である。四十四歳像の賛で「此かたを物すとてかゞみにみえぬ心の影をも」と鏡の使用をほのめかしているが、自画像が成立する必須条件は「鏡」の存在である。
 作家黒井千次氏によれば、
「本格的な自画像の誕生と、ガラス鏡の出現・普及とはほぼ重なり合っている」
  (『自画像との対話』文藝春秋社・1992年2月、P154)
 自画像作成は偶発的なことではない。なぜ宣長は生涯に2度の自画像を描いたのか、解決困難な問題であるが、そこに鏡があったことは間違いない。



(C) 本居宣長記念館


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