midashi_b 鈴屋衣

l_b3

「本居宣長四十四歳自画自賛像」鈴屋衣

 この着物、宣長独自の衣裳で現在は「鈴屋衣」と呼ばれている。「鈴屋」と言う名前は二階の書斎を造築した53歳以後だから、まだこの時点では名前はない。
 いつ、何のために創案したのか分からないが、文献上の初出は35歳の5月で、歌会などに着用したものと思われる。
「まろが衣を見てある禅僧のなどわが宗の衣ににてはきたるぞととがめけるに

   今さらに何とがむらむから衣やまと言葉にいひなれぬるを」
                (『石上稿』明和元年5月頃)
 禅宗の坊さんが、宣長の着物を見て、私達僧籍の着物に似ているというのでいやいやそうではありませんと断った歌である。

 この衣について、宣長の子孫である本居清造が『本居宣長稿本全集』第2輯(P99-101)でおおよそ次のようとをなこ書いている。
 44歳像、61歳像で着ているのは「鈴屋衣」と言われる着物である。歌会や講釈等で着用し、普段着ではない。材質は黒縮緬で、沙綾形の地紋がある。裏地はない。但しひこには鼠色で唐草模様のある縮緬を使い、襞がある。いわゆる居士衣の類である。

 寸法は次の通り。
一、袖たけ 一尺五寸五分
一、袖はゞ 一尺六寸六分
一、袖ぐち 一尺三寸
  但し平袖で幅二寸六分の裏(紫縮緬)が付く。
一、人形 一寸二分
 一、身たけ 三尺七寸
一、ひこ幅 一尺六寸 四ツ折に畳む。
 一、肩はゞ 八寸
一、後はゞ 八寸
一、前はゞ 五寸八分
一、襟はゞ 一寸九分
一、腰あげ 七分
一、襟かた 二寸

 襟肩より一尺九寸の処に、幅八分長一尺に縫紐あり。古代紫の縮緬で作ってある。また紐を縫い附けた襟の裏には、角製のこはぜとこはぜかけがある。
 禅僧からの質問と返歌や、また『キ(玉偏に幾)舜問答』に載る話を紹介する。

henyohenyo

ら ん

和歌子

henyohenyo
ら ん 本物は残っていないのですか。
和歌子 宣長が着用した鈴屋衣は、現在記念館に残っていますが劣化著しく全体を広げて見る事は出来ません。ただ、布地を見る限りでは、井特画の「本居宣長七十二歳像」がかなり忠実に写しているようです。また袖口の裏地の色は濃紺で、清造さんの記述とは異なるが、七十二歳像でもやはり濃紺ですね。
ら ん 当時も「鈴屋衣」と言っていたのですか。
和歌子 寛政11年7月の「鈴屋社中通達案文」(大平筆)と言われる一通には、「正月開講之節者、例年大人十徳着用有之候」、「正月歌会始之節、大人居士衣之類御着用有之候」(本居宣長・別3-630)とあり、この「居士衣」が鈴屋衣であろうと言われています。この記述だけ見ると、学問と歌会で衣を替えていたようにも見えるが、例えば駅鈴をお土産に持ってきた松平康定侯に源氏を講釈する時には、「みやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたる」(『伊勢麻宇手能日記』)とあり、寛政6年の吹上御殿での清信院への講釈にも、「服用ハ翁好之袖長キころも出たち也」(某人宛稲懸大平書状写し、宣長全集・16-572)と書かれていて、講釈でも着用したようです。また和歌山での御前講義や、京都での公家衆への講釈の時にも、持参し着用したことが『日記』に記されています。医者である宣長は、藩主の前では十徳が正装です。このように貴人の講釈で鈴屋衣を着用したのは、特に所望があったのかも知れません。この衣は宣長のトレードマークだったと言えるでしょう。
ら ん 身丈が3尺7寸というのはどのくらい?
和歌子 鯨尺で1尺が38cmだから、約140.6cm位かな。
ら ん 意外と短いけれど背が低かったの。
和歌子 当時の成人男子の平均身長は150cm代だったという説もあります。みな低かったようです。また、「鈴屋衣」自体、特殊な着物でそこから身長を推測することも難しいかと思います。但し、松平康定は、先の日記で「髪の結ひさまなどは早う見し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし」、髪型などは画像(61歳像でしょう)と同じで、身長は相撲取り位と書いています。これだと長身ですね。実際に宣長と会った人の証言として貴重です。



(C) 本居宣長記念館


目 次
もどる