ら ん |
本物は残っていないのですか。 |
和歌子 |
宣長が着用した鈴屋衣は、現在記念館に残っていますが劣化著しく全体を広げて見る事は出来ません。ただ、布地を見る限りでは、井特画の「本居宣長七十二歳像」がかなり忠実に写しているようです。また袖口の裏地の色は濃紺で、清造さんの記述とは異なるが、七十二歳像でもやはり濃紺ですね。 |
ら ん |
当時も「鈴屋衣」と言っていたのですか。 |
和歌子 |
寛政11年7月の「鈴屋社中通達案文」(大平筆)と言われる一通には、「正月開講之節者、例年大人十徳着用有之候」、「正月歌会始之節、大人居士衣之類御着用有之候」(本居宣長・別3-630)とあり、この「居士衣」が鈴屋衣であろうと言われています。この記述だけ見ると、学問と歌会で衣を替えていたようにも見えるが、例えば駅鈴をお土産に持ってきた松平康定侯に源氏を講釈する時には、「みやびたる衣にきかへて、初音の巻のはじめ三ひら四ひらばかり講じたる」(『伊勢麻宇手能日記』)とあり、寛政6年の吹上御殿での清信院への講釈にも、「服用ハ翁好之袖長キころも出たち也」(某人宛稲懸大平書状写し、宣長全集・16-572)と書かれていて、講釈でも着用したようです。また和歌山での御前講義や、京都での公家衆への講釈の時にも、持参し着用したことが『日記』に記されています。医者である宣長は、藩主の前では十徳が正装です。このように貴人の講釈で鈴屋衣を着用したのは、特に所望があったのかも知れません。この衣は宣長のトレードマークだったと言えるでしょう。 |
ら ん |
身丈が3尺7寸というのはどのくらい? |
和歌子 |
鯨尺で1尺が38cmだから、約140.6cm位かな。 |
ら ん |
意外と短いけれど背が低かったの。 |
和歌子 |
当時の成人男子の平均身長は150cm代だったという説もあります。みな低かったようです。また、「鈴屋衣」自体、特殊な着物でそこから身長を推測することも難しいかと思います。但し、松平康定は、先の日記で「髪の結ひさまなどは早う見し絵にいとよう覚えてたけたちはすまひなどいふばかりなりかし」、髪型などは画像(61歳像でしょう)と同じで、身長は相撲取り位と書いています。これだと長身ですね。実際に宣長と会った人の証言として貴重です。 |