midashi_o.gif 須賀直見(スガ・ナオミ)

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 寛保2年(1742)7月4日〜安永5年(1776)10月8日。享年35歳。家は本町の豆腐屋「田丸屋」。童名市松。名は章峯、改め直躬、更に改め直見。通称正蔵。病弱で、家業を継がず、稲懸棟隆に譲り、別宅で薬屋や本や絵本を商う。
  嶺松院歌会の会員で、宝暦8年夏からの『源氏物語』講釈に参加するなど、宣長と早くより親しく交わる。学問は日本文学だけでなく漢文学にも造詣が深く、旧蔵した『事文類聚』はやがて宣長の蔵書となる。
 講釈を聴くだけでなく、自邸で、明和2年(1765)10月3日より月次歌会を(『石上稿』)、明和9年2月7日からは『栄華物語』会読、終了後の安永4年6月13日から『狭衣物語』会読を始め、没する直前の安永5年10月5日に終業した。また、戒言、稲懸棟隆と協力して宣長の『草庵集玉箒』を刊行した時には漢文序「題玉箒首」を執筆。また、『字音仮字用格』に序を寄せ、刊行にも「松坂本町田丸屋正蔵」として加わる。

 実は、直見は大平の師。また大平から見ると直見は祖父の異母姉の孫。父の従姉の子である。
  大平は『田丸屋系譜』で
  「性学問を好み和漢の書を博覧して詠歌の道に秀給ヘリ、本居宣長先生の高弟也」
と書く。また、直見が居たら自分が養子になることはなかったとまで言っている。

 若くして逝った弟子への宣長の哀惜の念は深く、『講後談』や『玉勝間』にも名前が載り、天明8年、菩提寺法久寺での一三回忌には宣長も出て歌を手向ける。
 絵のように小首を傾け、頬に手をやり歌を考えるのが須賀直見のおきまりのポーズだったようで、直見没後、宣長がその姿を懐かしがり歌を詠んでいる。
 
「うなかぶし歌思ひけるすがのこがその面影を忘らえぬかも」

うなかぶしは首を垂れてと言う意味。
墓は法久寺篠田山墓園。法名「智進院本良慧菅居士」。

【参考文献】
「須賀直見の人と歌風〈附録〉『落葉集』の翻刻」鈴木淳(『國學院大學日本文化研究所紀要』45輯)。

「鈴屋円居の図」直見アップ

「鈴屋円居の図」直見アップ。



>>『事文類聚』
>>「代表的な門人 松坂近郊編」



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