midashi_b 白子国学略年譜

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 宣長の記録と、坂倉茂樹の子孫が祀る坂倉家の霊牌や資料をもとに編んでみた。

宝暦13年(1763)
spacer 5月25日  松坂新上屋で宣長と賀茂真淵が対面する。
  5月26日  賀茂真淵、白子村田橋彦宅に泊まる。
 
この年、坂倉茂樹生まれる。
 
天明2年(1782)
  「藤原広近神主霊、広・天明二壬寅年八月十八日、寿八十一才」※比佐女と合祀。
 
天明3年(1783)
  この年、白子の村田橋彦、宣長に入門。但し、橋彦は天明8年入門説もある。
 
天明4年(1784)
  この年、白子の村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹、倉田実樹4名宣長に入門。
 
天明5年(1785) 
  この年、一見直樹(俊徳)父七回忌で宣長歌を送る(宣長全集・15-439)。
 
天明8年(1788)
  1月4日 坂倉茂樹、宣長を来訪。一見直樹母六十賀歌文、村田並樹から文の依頼がある(宣長全集・20-257)。
  1月8日 白子の書簡と歌届く。24日返す(宣長全集・20-257)。
  1月10日 村田橋彦の書簡届く。同日返事書く(宣長全集・20-257)。
  1月16日 村田橋彦から書簡と進物届く(宣長全集・20-258)。
  1月 坂倉茂樹から書簡、白子から詠草届く。3月中旬返事(宣長全集・20-258)。
  1月20日 村田橋彦から書簡と珍物届く(宣長全集・20-258)。
  3月10日 夜、村田春海、橋彦、並樹来訪。橋彦から詠草添削依頼(宣長全集・20-258)。
  3月27日 村田橋彦の書簡届く(宣長全集・20-259)。
  4月17日 坂倉茂樹の書簡届く(宣長全集・20-259)。
  4月26日 村田並樹の詠草届く(宣長全集・20-260)。
  7月20日 白子から書簡と金子届く。8月19日返事書く(宣長全集・20-261)。
  11月 坂倉茂樹『能褒野陵考』執筆。
  12月13日 宣長、村田並樹、坂倉茂樹両名宛書簡執筆(宣長全集・17-113)、『能褒野陵考』を褒める。
 
 この年、白子の白子昌平、村田橋彦2名宣長に入門。但し、橋彦は天明3年入門説が有力。
 この年、宣長、村田橋彦に久しく無沙汰をしていると歌を送る(宣長全集・15-452)。
 
寛政元年(1789)
  2月27日 一見直樹から「本末歌」(横物)依頼(宣長全集・20-261)。
  3月19日 宣長、名古屋行きのため白子に立ち寄る。田鶴か屋(橋彦)、萩の屋(並樹)に寄り、同夜は並樹宅に泊まる。
  3月29日 宣長、名古屋からの帰路、坂倉茂樹等の案内で能褒野陵、山辺御井を廻る。一見直樹宅に泊まる。
  4月17日 宣長、白子(村田橋彦)への書簡と詠草送る(宣長全集・20-263)。
  4月 坂倉茂樹から人麿歌を依頼される(「一、人丸賛 茂木誂 尤茂木所蔵ノ像ヲ見テヨメルヨシ端書スヘシト也」・宣長全集・20-263)。村田並樹から「本末歌」依頼される(宣長全集・20-263)。
  5月10日 夕、一見直樹来訪。「琴之屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。
  5月 坂倉茂樹から「楽声屋文」依頼される(宣長全集・20-263)。
  閏6月6日 村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名宛書簡執筆(宣長全集・17-123)し、渡辺直麿から村田橋彦宛書簡の転達を依頼。この時人麿歌も届けられる。
  8月 村田橋彦から竹の賀歌依頼で書簡届く(宣長全集・20-264)。一見直樹から掛物賛に、万葉日本琴、もしくは新歌の依頼(宣長全集・20-264)。
  10月5日 村田橋彦へ『神代正語』を、また並樹詠草を橋彦宛に送ることを『雅用録』に記す(宣長全集・20-265)。
 
寛政2年(1790)
  夏頃 白子昌平、渡辺重名の『馭戎慨言』序を清書する。
 
寛政3年(1791)
  7月 坂倉茂樹、『寛政三辛亥七月楽声舎筆記』起筆。
  9月 「藤原広丸霊、広丸・寛政三辛亥歳九月」※筆書き判読困難。藤原共近と合祀。「神道宗門」(西田長男)に「茂樹には嗣がなかったので、笠因直麿の次男の菅雄を養子に迎えた。通称を広丸といったのがこの菅雄のことである。しかしてその兄の笠因元彦にまた嗣がなかったので、今度は広丸の子が養子になって上総介直麿と称した。この直麿を称したのはもとより祖父の名乗りを受けたものである。ただし、のち故あって離縁せられ(『松阪神社文書』)云々」とあるがいかがであろう。笠因は松坂雨竜神社の神主で宣長の門人。
 
寛政4年(1792)
  1月 坂倉茂樹、鈴屋来訪か。1月5日付七里長行宛書簡で「此間白子坂倉氏入来之節」と書く。
  1月6日 坂倉茂樹宛、村田橋彦宛各書簡執筆。坂倉宛は来訪と年玉礼、橋彦は賀状(宣長全集・17-169・年次推定根拠薄弱)。
  9月10日 坂倉茂樹、市見直樹両名宛書簡執筆。肖像画の件を述べる(宣長全集・17-568)。年次は小山氏の推定による。根拠は、先頃並樹が江戸に行ったと言う記述。
  9月12日 坂倉茂樹宛書簡執筆。江戸行き恙なく済んだことを喜ぶ(宣長全集・17-184)。7月の松坂洪水が年次推定の根拠(7月13日に洪水があった)。
 
寛政6年(1794)
  8月24日 坂倉比佐女没。「比佐女御魂、比・寛政六庚寅年八月廿四日、寿七十七才」※藤原広近と合祀。
 
寛政7年(1795)
  1月2日 夕、一見直樹来訪(宣長全集・20-269)。
  1月5日 坂倉茂樹来訪(宣長全集・20-269)。
  1月29日 村田並樹来訪(宣長全集・20-269)。
  9月20日頃 村田並樹から布目上半切50枚贈られる(宣長全集・20-341)。
  10月7日 坂倉茂樹から短冊50枚、扇2本贈られる。
  この年、坂倉茂樹等、紀州藩に神葬祭を願い出て許可。
【参考文献】西田長男「神道宗門」
 
寛政8年(1796)
  1月8日頃 坂倉茂樹から竹の絵、梅の絵に賛の依頼(宣長全集・20-275)。
  2月4日頃 村田橋彦、また、村田並樹、坂倉茂樹、一見直樹3名よりの依頼の件有り(宣長全集・20-276)。
  4月17日頃 坂倉茂樹より大祓の依頼有り(宣長全集・20-278)。
  5月28日頃 坂倉茂樹、村田橋彦より依頼有り(宣長全集・20-279)。
  7月8日 松平康定侯に対面するため桑名に行く。四日市泊まり。
  7月11日 桑名からの帰路、白子の村田橋彦宅に寄るか。津泊まり。
  7月26日 村田並樹、一見直樹、坂倉茂樹3名宛書簡執筆。中元の礼と、桑名行きでは橋彦の所にだけ立ち寄ったことを詫びる。
  9月18日頃 村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-281)。
  10月18日頃 村田橋彦の依頼物あり(宣長全集・20-282)。
 
寛政9年(1798)
  7月22日頃 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-288)。
  12月頃 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-291)。
  12月16日 坂倉茂樹から画賛2枚依頼。ウスヒキと三番叟(宣長全集・20-291)。
 
寛政10年(1798)
  1月10日頃 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-292)。
  3月20日頃 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-293)。
  6月16日頃 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-296)。
  9月3日 坂倉茂樹から画賛と長歌の依頼(宣長全集・20-297)。
  11月3日 坂倉茂樹宛書簡執筆。「武備神社縁起」添削の件(宣長全集・17-436)。
 
寛政11年(1799)
  1月8日頃 坂倉茂樹からの依頼物あり(宣長全集・20-301)。
  3月11日頃 村田橋彦からの依頼物あり(宣長全集・20-302)。
  4月12日 坂倉茂樹から亀の絵画賛依頼あり(宣長全集・20-302)。
  8月12日 坂倉茂樹没。享年37歳。「先神主坂倉大和守従五位下藤原朝臣広善神霊、于時寛政十一己未年八月十二日歳三十七神去」。嗣がなかったので笠因直麿の次男を菅雄を養子に迎え、広丸を名乗る。また、笠因氏は実兄元彦に嗣子無く、広丸の子が養子になって上総介直麿を名乗った。
  8月22日頃 一見直樹からの依頼物あり(宣長全集・20-304)。
  9月8日 植松有信宛書簡で村田家不幸と坂倉茂樹死去に触れる(宣長全集・17-473)。
  10月5日 坂倉越後守から松茸を貰う(宣長全集・20-356)。茂樹の養子であろう。
  10月22日頃 一見直樹から文の依頼有り。11月5日には終わる(宣長全集・20-305)。或いは『日々諸用事扣』「白子一見元常琴の屋文章ノ事」(宣長全集・20-320)と同じか。
  村田並樹、治九兵衛と名を改める(宣長全集・20-320)。
 
寛政12年(1800)
  1月11日頃 白子からの依頼物あり(宣長全集・20-306)。
  1月17日 一見直樹から短冊の依頼(宣長全集・20-307)。
 
享和元年(1801)
  3月26日 一見直樹から依頼物あり(宣長全集・20-312)。また同人からの依頼物の記事『諸国文通贈答並認物扣』にあり(宣長全集・20-313/314)。 


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