midashi_b 嶺松院歌会(レイショウインウタカイ)

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 松坂における宣長の活動母体となった歌会。松坂新町、樹敬寺塔頭嶺松院で開かれた。

 ☆宣長加入前
 初会は享保8年(1723)、小津長正(清水谷実業門人)により始められたが、同14年、長正の死去で中断。以上のことは寺伝に依る。享保16年(1731)4月25日再開。その後会員や式日の変化があるが、再開以後だけでも78年間継続する。再開時の記録『享保十六年四月月次和歌会よろづのひかへ』冒頭には会員10名の名と、会則、当番が記される。中に宣長の縁戚者が4名確認できる。式日は25日で、朝食後集まり、弁当持参、当番が茶や炭、塩うち大豆の用意をすること、所蔵の歌書を持参することなどが書かれる。宝暦2年(1752)4月からは、『詠草会集 其一』として記録が残される。初会の出席者は、小津道円、青木貞雄、嶺松院茂鮮、小津正啓、中津光多の五名で正啓、光多以外は以前からの会員である。

 ☆宣長の加入以後
 宣長の加入は宝暦8年2月11日、歌は「風光日々新、舜庵、きのふまで桧原にくれし鐘の音も花に明けゆくをはつせの山」。この頃の会は11と25日の午後に開かれた。会日は7月、12月を除き順守された。宣長の『源氏物語』を始めとする古典講釈の聴講者も、最初は大方がこの会員である。会の名称「嶺松院会」が定まった時期は遅れる。確認できる最初は、先の『石上稿』宝暦8年に載る歌の詞書。また「詠草会集」とあった表紙(例えば宣長加入直後のものには『宝暦九卯閏七月 詠草会集 其九』と書かれていた)に、嶺松院が冠せられるのは『宝暦十一年辛巳 嶺松和歌集 其十』からである。その新しい表紙の筆跡が宣長であるのは、宣長の嶺松院会での指導者的な行為の一つの表れと見ることも出来る。確認できる最終日は文化5年7月5日(1808)。享和、文化頃は3、5日が会日か。

 ☆記録
 記録は『詠草会集』、『嶺松和歌集』として56年分26冊の内、24冊が残る。また宣長の『嶺松院会和歌序』や、会員の文集『嶺松和文集』等関連資料も多く残る。



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