midashi_g.gif 大友親久

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 宣長門人、大友親久(オオトモ・チカヒサ)は、波宇志別神社の神主である。青雲の志を抱き、松坂に着いたのは、享和元年(1801)9月13日。すぐに入門する。だが非情にも師は、僅か数日後に病の床に伏し、29日に没する。

 悲しみの親久であったが、気を取り直し、師の没後も松坂に留まり、春庭に入門、歌会などに参加する傍ら、師春庭の語学研究を助けた。春庭宛大平書簡(文政9年10月20日付)に

「八ちまたを御こしらへの時に大友永太なとにぬきがゝせ被成候古歌の反古(ほうぐ)あらは私へ御めくみ可被下候」
とある。今で言う「用例カード」を作成し、『詞のやちまた』執筆に協力したのだ。

  だが、その完成を見ることなく、文化元年(1804)12月20日、松坂にて客死。9月頃から病に臥せっていたという。葬儀は宣長の菩提寺・樹敬寺で執り行われた。記録には「大友久磐處士」とある。葬儀の請け人は「茂兵ヱ、河原町」で、田中茂兵衛とされる。身元引受人の地主惣右衛門から葬儀が鄭重に執り行われたこと、墓石を作ったことが郷里に報じられた。墓石はやがて無縁となったのであろう、今は確認することが出来ない。親久の逝去や葬儀については、秋田大学の金児紘征さんの丹念な調査で、2006年秋に判明した。享年不詳。一説に、安永年間の生まれと言うから、30代後半くらいであったか。

  出羽国平鹿郡波宇志別神社祠官。本姓藤原。通称栄太、永太、八十尋。名久磐。羽後秋田藩儒中山菁莪に師事。松坂を訪い入門。宣長の葬儀記録『大平翁御手記の写』の筆写でも知られる。春庭等の追悼歌が残る。文化3年4月28日、甥の大友直枝が大平に入門する。直枝は、蒲生君平の弟子でもある。


【参考文献】
「二つの国学関係資料」新野直吉『神道史研究』5巻3号。
「館蔵大友親久関係資料」木下泰典『須受能屋』3号。
『近世秋田の学問と文化 和学編』渡部綱次郎(平成11年9月25日刊)
「大友親久の墓所発見 松阪で客死した本居宣長門人」金児紘征
                (「秋田さきがけ」2006年9月7日)


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