midashi_g.gif 大峰山参り

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 松坂近郊には、今も「サンジョマイリ」と呼ばれる、大峰山山上ヶ岳に行く風習が残っている。「御嶽詣で」だ。成人前の男が、山伏の格好の先達に連れられ、女人結界の山に登り、崖から落とされそうになり、「親に孝行するか」と怒鳴られる。一種の通過儀礼、大人になるための儀式だ。
 これは、「十三参り」と言って、全国的に見られる行事だ。福島県耶麻郡では13歳の3月13日、柳津の虚空蔵にお参りする。京都近郊では嵯峨法輪寺に行く。13歳の宣長が吉野水分神社に行ったのもこの「サンジョマイリ」を兼ねてであった。
 父は、男の子が生まれたら13になれば大峰山に行く。その時に自分も同行して吉野水分神社にお礼を申し上げようと考えたに違いない。吉野水分神社は大峰山の入り口だ。
 その父、早くに逝き、残された母は、亡夫の宿願をかなえようと、手代を2人も付けて息子を吉野に旅立たせた。

 この旅については、『家のむかし物語』が一番詳しい。

「恵勝大姉(母・勝)、道樹君(父・定利)の、かの願たておき給ひしことをおぼして、七月に吉野の水分の神社にまうでしめ給ふ、此里に御嶽まうでする人々あるに、たぐひてなりけり、われいまだいときなかりければ、うひ旅をうしろめたくおぼして、ふる手代なる茂八といふ者と、宗兵衛とて年久しくつかふ従者と、二人をそへて、出たゝせ給ふ、かの社にまうでて、かへり申シして、たぐへる人々とともに、御たけにもまうでて、事なくかへりぬれば、恵勝大姉涙おとしてぞよろこび給ひける、道樹君の御事、いかがおぼし出けむ」
 後年の旅の記録を併せ考えるに、和歌山街道を行くならば14日は七日市泊、15日に高見峠を越えて大和国に入り鷲家の辺で泊る。16日吉野着。また長谷街道を行くならば、14日は伊勢地泊。15日大和国に入り多武峰辺りで泊る。16日吉野着。以下は、『日記』の通りだ。16日夜から17日に、吉野から吉野水分神社を通り金峯山寺を経て大峰山に行く。山上ヶ岳には夜中に着いたか。17日の朝から、例の崖で宣長も山伏に怒鳴られ冷や汗をかいたことであろう。午後には洞川という村まで降りて泊まったか。18日には高野山に行く。これも今も山上参りのセットで行くコースだ。19日には参詣を済ませた後、一気に山を下り、五条辺りまで来る。帰りは長谷街道、あるいは途中榛原から伊勢本街道をとったかも知れない。

  書くと簡単だが、後年の菅笠の旅に比べてもかなり厳しい日程である。
  帰ると母は涙を流して喜んだ。ところが、肝心の宣長には、お礼参りの意識は余りなかったようだ。 『日記』には、

   「同二季【壬戌】七月参詣大峰山上也」

と実にあっさりと書いてある。
  もう一つの「万覚」と呼ぶ『日記』には、

 
「○寛保二年七月十四日ヨリ廿二日マデ、吉野ヘ参【十六日夜ヨリ十七日参○十九日高野ヘ参○廿日長谷寺ヘマヒル】」

と少し詳しく書かれるが、やはりどこにも「吉野水分神社」にお参りするなど出てこない。
  これが後年逆転する。



>>「旅の新たな位置付け」
>>「吉野水分神社」



(C) 本居宣長記念館


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