和歌山に移り住んだ本居家の菩提寺は、臨済宗妙心寺派吹上寺(和歌山市男野芝丁)である。寺の辺りは、江戸の昔は「眺望真妙」「松樹鬱蒼」の地で、炎暑の折には涼風を求めてやってくる人を「羲皇上人」(泰平の逸民)となった気持ちにさせると書かれている。
この寺が菩提寺に選ばれた経緯は不明だが、逆縁となった長男・本居建正等の墓や、遙拝石があるところから、早くから決められていたことが知れる。
大平の臨終と葬儀について書いた「藤垣内翁終焉の記」には、
「湊といへる所の吹上寺といふにをさむ、禅林寺といへる大寺の和尚引導といふことす」
とある。禅林寺は鷹匠町にある。禅宗なのであまり抹香臭い葬儀ではなかったという。
大平の墓の様子について同書は、
「奥都伎所はいと高き所にて、西さまに海辺いとよく見えてひろくよき所なり・・石ふみの文字は、なには(浪華)なる長田鶴夫にあとらへてかかす、長三尺五寸の石に本居大平奥都伎と七文字彫たり、台の石一重高さ一尺五寸ばかり、此下は地の上より二尺ばかり高く石にてつみて、ひろさ七尺に八尺あまり也、うしろのかたに小山をつき芝生になして、前にかの石を立つ。こは山室なるおほぢ翁の奥都伎所のさまにすべてをならひうつせるなり。さてめぐりに方なる木の垣をめぐらしてかたへに大なる年ふるき松一もとあり」
と叙述する。
だが、景観は戦災で一変した。
今、残る本居家の墓は八基。大平(1756〜1833・78歳)、その子建正(1788〜1819・32歳)、清島(1789〜1821・33歳)、大平三人目の妻つてこ(?〜1842)、娘藤子(1804〜58・55歳)、永平(1819〜42・24歳)、藤子の夫内遠(1792〜1855・64歳)、その子豊穎の妻雪子。また、墓の間には、「先祖親族墓遙拝所」と刻された自然石がある。ここから父祖の地松坂を遥拝した。位置関係は、「本居大平奥都伎」の左が「本居兵衛平建正之墓」、右が「本居永平之墓」、その隣が遙拝石。大平の墓を右手に見た並びは、右が「本居内遠之墓」、左はその妻藤子の「布地子墓」。左手に見た並びは左から「都弖子墓」、「本居豊穎妻雪子霊」、「本居清島之墓」。
また、吹上寺には、須賀直入の墓がある。墓石には「伊勢、十葵薗主人、須賀直入墓、紀藩侍医兼和蘭訳学、伊勢、武部子藝甫墓、享年六十一」とある。
直入については、宣長の『授業門人姓名録』一本に門人として名前が挙がり、また青柳種信宛大友直枝書簡に
「須賀直入と申ハ、本居氏江長ク同居之人ニ御座候」
と書かれていて、本居家、また宣長とも密接な関わりがあった人物である。もと武部氏であったとも、文化4年頃から須賀姓を名乗ったともいうが、未だに謎に包まれたことも多い。但し、昨今研究も進展している。
明治維新を迎え、和歌山本居家は東京に出、以後の墓所は谷中霊園となった。大正天皇の皇太子時代の侍講「本居豊穎之墓」と妻「本居鎮子墓」、以後の子孫を葬る「本居家之墓」で、高名な作曲家長世(豊穎孫)、詩人菱山修三(長世三女・若葉夫)もここに眠る。
吹上寺「本居大平奥都伎」
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吹上寺大平等墓
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吹上寺「先祖親族墓遙拝所」
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吹上寺内遠等墓
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吹上寺都弖子墓等
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吹上寺本居家墓所俯瞰
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吹上寺須賀直入、武部藝甫墓
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