midashi_g.gif 奥墓(オクツキ)

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 宣長の墓所。松阪市山室町字高峯にある。
 奥墓(オクツキ)とは墓のこと。宣長は『万葉集』4096番歌「於久都奇(オクツキ)」に、「墓ナリ」と書き添える(『寛永版本万葉和歌集』手沢本)。樹敬寺が一族の墓で夫婦合葬であるのに対し、奥墓は個人の墓で宣長はここに埋葬される。

  「本居宣長之奥墓」と自書した墓石は南面、碑の後ろには山桜が植えられる。墓石以外は、明治8年の山室山神社創祀等度々の改変があり当初の姿を想像することは困難。当初の構想は『遺言書』に図解されるが、その後更に手を加え「改正墳墓図」を作成。碑面文字も『遺言書』の「奥津紀」から、碑面下書「奥墓」と文字を改める。

  奥墓の準備の記録上の初見は寛政12年7月、『遺言書』の執筆に始まる。秋某日、宣長より大平に山室へ墓地の下見に行く相談があったが、大平は吉事でもなく古意に背くと疑義を申し立てた。9月16日夜、講釈終了後、宣長より門弟に明朝5つ(午前7時頃)に下見に出発する旨告げられる。翌17日、12、3人を従え妙楽寺を訪ね、山内に自らの墓所を定める。予定地は「山室山奥墓図」に略図で示す。当日の詠として「山室行詠草」15首が残る。10月4日、土地代1分支払う(『諸用帳』)。寺との交渉は門人三井高蔭が仲介し、譲渡面積の拡張と場所の変更が決定される。10月付本居中衛宛譲り渡し状一札が届けられる。11月17日、住職法誉宛書簡執筆し、礼を述べ和歌山行きのため参上できないことを謝罪。同20日、石屋喜兵衛に石碑代として金1両2分を払う(『諸用帳』)。同日、和歌山に出立し、造営は高蔭が監督した(『夏衣』)。
  翌享和元年3月、和歌山から帰宅後、花見を兼ね山室山に行き植えた桜の花に満足する。また「山室に千年の春のやとしめて風にしられぬ花をこそ見め」はこの頃の心境を詠んだ歌であろう。
  9月29日宣長死去。10月1日夜、この奥墓に埋葬された。『山室の図』の春庭賛(美濃書)によれば、日によっては富士山を眺望することも出来たという。脇には平田篤胤、下がった所に植松有信の歌碑がある。

【参考】吉田悦之「山室山奥墓再見」(『須受能屋』10号)。

「奥墓」山室山神社時代・玉垣が周囲を囲む
「奥墓」山室山神社時代・玉垣が周囲を囲む
山室山神社 時代・
玉垣が周囲を囲む
山室山神社時代・
玉垣が周囲を囲む
「奥墓」明治34年改修後間もなくの頃
後の桜の細さから明治34年改修後間もなくの頃であろうが、花筒が無い。
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奥墓

山室の図

「山室の図」


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