宣長の書

 宣長を書家として見る人、また評価する人はまずいない。宣長自身、自分の字は下手だと言う認識を示している。
 随筆『玉勝間』巻6「手かく事」いう文章がある。そこでは次のようなことを書いている。

 何よりもまず、先ず字は上手に書かねばならない。歌を詠んだり学問する人が拙い字を書くとそれだけで歌や学問まで胡散臭く見えてしまう。内容と文字は関係がないというのも確かに理屈ではあるが、やはり割り切れぬ気持ちが残る。私は字が下手で、いつも筆を取るたび、大変悔しい。こんなことは言っても仕方ないと思うが、それでも人から所望され、仕方なしに短冊を一枚書いてみるが、それを眺めると、我ながら、大変見苦しくぎくしゃくしている。人はこれをどうみるのかと思うと、恥ずかしさで胸が痛くなる。若い時にどうして手習いをしなかったのかと大変悔まれる。
  これを読むと、宣長は手習いをしなかったように思われるが、実はかなりみっちりと習っている。8歳の8月より、西村三郎兵衛を師とし、「いろは」、「仮名文」、「教訓之書」、「商売往来」、「状」、及び『千字文』の「天地」等を習う。特に『千字文』は師を代えて半元服の13歳まで続いた。だが、それでは不充分だったのだ。

 もう一つ重要なことがある。それは「人から所望されて短冊を書く」というのだが、その数たるや頗る多い。宣長は家業の木綿商を廃し、医業を学び、それで生計を立てる。国学者の台所は薬価料で賄われていたのだ。だが、学者としての名声が高まるにつれ、次第に収入源も変化を見せてくる。和歌を添削したりすることで礼金が入る。また門人となり束脩を納める人もいる。だが、それ以上に大きなウエートを占めたのが、「有名人宣長さん」に何か書いてもらおうと言う人たちであった。
 しだいに、このような「認物」(シタタメモノ)と呼ばれる書の収入が家計を支えるようになった。『諸国文通贈答并認物扣』はそんな染筆の記録である。書家ではないが染筆料に頼る宣長。その家計や日常を記録したのも、実は宣長自身である。宣長は「記録の人」である。そしてその記録は没後200年たった今も、当時とほとんど同じ状態で、つまり完全保存されて伝わっている。

 宣長と書と言う時に、特に注目されるのはこの点だ。
 筆跡から言えば、『日記』を書き始めた13歳から、以後72歳まで各年齢の書がすべて残っている。しかも速筆の日常雑記、手に持った状態で書かれた詠草、謹直な文字で記された写本や稿本類までバリエーションも豊富である。少年期、青年期、壮年期、円熟期と一生の文字の変遷、宣長の場合それは少ないが、それでも60年という年月の中での変化は当然見て取ることが出来る。

  さて、写本や稿本の宣長の字は、どこまで書き進んでも殆ど変化することがない。また書き損じが極めて少ない。疲れというものがないのか。穂先を切った筆に秘密があるのだよと言う人もいる。いずれにしても、宣長という人は、机に向かうと感情というものが無くなってしまうのではないか。例えて言えば、機械のような人ではなかったか。
 決して冷たいというのではない。反対だ。宣長の学問の根底には人間の弱さの認識があった。それを覆い隠すものを「からごころ」と批判し、その弱い心こそが「物のあわれを知る心」であり、そこから歌が生まれると考えた人だ。だが、感情がほとばしるような、例えば師の賀茂真淵の書とは全く別だ。それは、その学問を象徴する字体でもある。

 畢生の大著『古事記伝』。この注釈書の執筆は、先ず『古事記』への書き入れから始まる。そして草稿、再稿と書き進んでいく。全巻完成まで35年以上の歳月が費やされるが、入念な準備と研究、執筆、また出版の段取り、版下書、校正まで綿密に計画され、実行される。『古事記伝』を含め、宣長の著作で生前刊行分は30種に及ぶ。いずれも、書かれたものは殆ど改訂する必要がない程だ。核心へと迫る注釈の方法に「美しさ」を感じた人もいる。執筆から出版へのスムーズな作業の流れに「美しさ」を見た人もいる。
 出版直後から改訂した真淵とは対照的だ。どちらが優れているというのではない。それぞれの資質と流儀はあるのだが、それにしても宣長の文字は、どこまでも坦々と書かれ、その人柄を偲ばせる。


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(C) 本居宣長記念館


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