midashi_g.gif 松坂

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 「松坂」は、戦国時代の武将・蒲生氏郷(1556〜95)により開かれた町。主に現在の三重県松阪市の市街地にあたる。氏郷は、近江国日野の出身。天正16年(1588)、33歳の時に四五百森に築城、町を造り「松坂」と名付けた。秀吉が大坂城を築き、入城した5年後である。
 町は城を要に、扇形に武家の町、商人の町、職人の町、その外側に寺社を配した。

松坂色分け地図

 また、参宮街道を引き込み、楽市楽座を布告し、商人を集め、活性化を図った。氏郷が会津に転封して以後、服部一忠、古田重勝、重治と領主が代わり、元和5年(1619)、松坂は紀州藩領の内、勢州三領18万石統治の中心となる。支配は松坂城代が行った。

 町の規模は、『松坂権輿雑集』(1752年11月序)に「惣町縦十九丁余、横九丁余、此家数千三百軒程、但隠居家は除之、此人数八千三百人程、但召仕は除之、内八百人程他国ニ稼居る」(『松阪市史』)。『松坂町役所支配分限帳』(1769)に、町名数は46、人数は9078人と記される。ほぼ1万人位であったらしい。参考までに、明治32年(1899)頃の松坂町人口は14,114人。
 紀州藩領になった松坂は、周辺農家などの高い生産力や街道の利便性を背景に、やがて商人の江戸への出店が始まり、延宝元年(1673)の三井高利の江戸進出で頂点を迎える。彼ら「江戸店持ち商人」は、江戸商業や藩経済にも大きな影響力を持った。1750年代には49軒の江戸店持ち商人がいたと伝える。
 町の雰囲気は、後年のものだが、宣長自身による「伊勢国」(『玉勝間』)や、松坂町西町住の森壺仙が著した『宝暦咄し』がよく伝えている。

 宣長の行動範囲は、医者としての往診など仕事やまた家の行事などを除くと、歌会と行楽が大きなウエートを占める。歌会は、市内の寺院やまた個人宅などが含まれる。行楽は、宣長自身が好きであったことと、門人との大事な交友の場でもあったので、四季を通じて行われた。



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