元禄10年(1697)3月4日〜明和6年(1769)10月30日。享年73歳。
遠江国敷智(フチ)郡浜松庄伊場村(静岡県浜松市東伊場1丁目)に生まれた。そこを岡部郷とも言う。父は賀茂神社神官の出で、遠祖は京都上賀茂神社の社家につながり、勅撰歌人・賀茂成助を出した名家。真淵の生まれた頃は農業を営んでいた。
通称は誕生日に因んで三四(ソウシ)。その後、政躬、政藤、政成、春栖と名前を改める。また衛士と名乗る。11歳から杉浦真崎に手習いを教わった。真崎は荷田春満の姪。また漢学は、太宰春台の弟子・渡辺蒙庵、国書を五社神社の森暉昌(モリ・テルマサ)に学び、諏訪神社の杉浦国顕らと歌会を開いた。29歳で本陣・梅谷方良の婿養子となった。
その後、単身、京都に遊学し、荷田春満に学ぶ。その後は居を江戸に移し、八代将軍・徳川吉宗の次男・田安宗武に仕えた。
致仕後も、田安家御用を勤める事多く、67歳の宝暦13年(1763)2月にも、古典臨地調査のため畿内を旅する。その途次、松坂で宣長と対面。翌年には浜町に移り、県居(アガタイ)と号した。
多くの門人を指導した。
江戸での門人には、村田春海、加藤千蔭、加藤宇万伎など。また女性も多かった。油谷倭文子(ユヤ・シズコ)、土岐筑波子、鵜殿余野子(ウドノ・ヨノコ)を三才女と呼ぶが、余野子は紀州徳川家に嫁した富宮の侍女である。侍女には他に片野氏女・紅子(モミコ)、吉田意安女・八重(みほ子とも)などが有名である。
地方では遠州の内山真龍、栗田土満、伊勢の荒木田久老、村田橋彦、そして宣長もいた。江戸という文化の新興地で、門弟中には平賀源内、建部綾足といった人もいる。歌人として、また能書家としても知られる。
代表作には『冠辞考』、『万葉考』、『祝詞考』、『源氏物語新釈』、『伊勢物語古意』、『にひまなび』などがある。
墓は品川区東海寺大山墓地にある。近くには、沢庵禅師や儒学者服部南郭夫妻墓がある。また後年、本居内遠の奥墓も建造された。
現在、静岡県浜松市には賀茂真淵記念館が、また隣接して県居神社がある。
「賀茂真淵像」
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「賀茂県主大人墓」
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「大山墓地賀茂真淵墓」
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(C) 本居宣長記念館
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