midashi_b 宣長さんの高所志向

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 宣長さんは高いところが好きだったようだ。
 22歳の時には江戸の帰り富士山に登っている。
 7月12日、駿州須走の神ノ尾伝左衛門宅に泊まる。富士登山、その夜は山腹六合目の室に泊。
 7月13日、巳ノ刻(午前10時)頃に頂上に着く。御鉢裏を廻って、申ノ刻(午後4時)下山し神尾氏に泊る。

【資料】
『日記(万覚)』
「十二日、夜ヲコメテ関本ヲ出ル、晴天、竹下中食、未刻、駿州須走ニツク、神尾伝左衛門宅止、餉クヒ休息シテ、七過ヨリ富士山ニ登、其夜ハ、山半腹室宿ル、六合目室也、十三日、晴天、早朝室ヲ出、登登テ巳刻計、山頂上至御鉢裏ト云ヲ廻ル、申刻須走下、其夜神尾氏宿ル」

 この時の経験が、『沙門文雄が九山八海解嘲論の弁』での
「おのれ先年富士山にのほりて、室といふ屋に宿して、朝に日出を望むに、其影さかさまに屋根うらにさせり、四万由旬の上にあらん日の影の、下より上へさすべき理あらんやは」(宣長全集・14-166)
と言う記述の裏付けとなっている。

 ところで、宣長はなぜ富士山に登ったのだろう。
 実は、7月13日は、食行身禄(1671〜1731)20回目の命日であった。身禄は伊勢国一志郡出身で、江戸で活躍した伊勢商人。その後に出家し、身禄同行富士講の開祖となる。宣長の登山も関係あるのだろうか(「食行身禄と宣長さん」中根道幸「三重文学漫歩」『教育文化会館のたより』96号)。それとも、江戸からの帰り、別に深く考えることもなく、富士登山の一行にくっついていったのだろうか。

 これ以後も宣長さんが高いところに登り眺望を楽しんだのは、19歳の上京では清水寺。3回も詣ったのは本尊の開帳も理由の一つだろうが、やはり眺望も魅力的だったはずだ。遊学中もしばしば足を運んでいる。
「いつまいりても、たくひなくおもしろき所也、本堂のさまいとたふとし、仏にぬかつきて、舞台へ出て、四方のけしきをのそむさま、いはむかたなくおかし、男山山崎のわたりとをく見えて、淀川のながれいとしろく見えわたりたり、其外所々の風景いとよし」
             (『在京日記』宝暦7年7月18日条)
 京都遊学中の清閑寺、東寺五重塔(『在京日記』)、また菅笠の旅での「天香具山」、ちょっと低すぎるかな。
 またその帰路「堀坂峠」ここでは自分の住む町が手に取るように見えて感動している(『菅笠日記』)。そして横滝寺。
 また、はっきりとした記述はないが、19歳、72歳の両度、大坂で高津宮に詣っているが、ここは大坂の町が見下ろせる場所で、貸し望遠鏡(遠鏡)もあったらしい。

 宣長の奥墓のある山室山から富士山が眺望できたことは「山室山の図」にも明らかであるし、また、宣長の学問の高さを富士山になぞらえる大平の歌もある。

東海道から眺めた富士山

東海道から眺めた富士山
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「山室山の図」

「山室山の図」
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幕末松坂出身の歌人高畠式部の「富士山画賛」  

幕末松坂出身の歌人高畠式部の「富士山画賛」


>>「東寺五重塔に登る」
>>『在京日記』
>>「注釈とは創造でもある」
>>『菅笠日記』
>>「奥墓」
>>「遠眼鏡」



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