加藤宇万伎から悲痛な手紙(4月29日付)を受け取ったのは、安永6年、宣長48歳の夏のことであった。
僕は多年『古事記』研究を志してきたが、去々年からの病気で原稿一枚も書くことが出来ない。このまま死んだら遺恨を遺すだけだ。あなたの『古事記伝』を見せてもらい、もし自分と同じ意見だったら満足が出来る。どうか貸してくれ。
実は、師・真淵からも、宇万伎と意見交換しながら『古事記』を研究しろと言われていた(明和4年11月18日付宣長宛書簡)ので、宣長は草稿本を送ってやった。
ところが、6月10日、宇万伎は没してしまった。貸した本はどうなるのだろう。不安に思う宣長の下に『古事記伝』が帰ってきたのはそれからしばらくしてからであった。宇万伎の友人・砺波今道が探して送ってきてくれたのだ。
『石上稿』安永6年条にその時の歌が載る。
「いと大事にする書を藤原宇万伎か京なるもとへかしつかはしけるに宇万伎ほどなく身まかりにければなくなりやしなんといと心もとなく思ふほどに宇万伎が友なる砺波今道がとかくたづねてかへしおこせけるいとうれしくて今道がもとへ
君がする しるべしなくば かへる山
かへらでよそに ふみやまどはん 」
『玉勝間』に書かれた、本の貸し借りの注意点は、宣長はこの時の体験を踏まえたものであった。
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