明和6年(1769)『松坂町役所支配分限調帳』に拠れば、松坂町の人口は9078人。医者は代々御目見得医師の鹿嶋元泰以下35名。宣長もその一人。(『松阪市史』11-305)
『宝暦咄し』で当時の松阪の医者の様子を見てみよう。
まず、職人町に小嶋専庵という「大医」がいる(この人は、『松坂町役所支配分限調帳』に小嶋彦麟として出ている人の一族だろうか)。
流行っている医者は、長井元慎、堤元瑞、かしま元泰。後に針医・伊藤養仙。
魚町上の丁(宣長と同じ町内だ)に、伊豆倉元朴と言う盲人の博学がいて、長井元慎、堤元瑞が大いに尊敬した。
山村元祥という流行らない医者がいた。「小便医者」と呼ばれてバカにされたのはこの人が最初だ。
西町の山村吉右衛門は、町人のくせに官位を望んで医者となり通庵法橋となる。
次に、同業者で宣長と親しかった人を見てみよう。
菅笠の旅に一緒した小泉見庵、『制度通』を借りた鹿嶋元長、学問所建設願いに名前を連記した塩崎宋恕、また門人の村田光庸がいる。門人では外に、大館高門、服部中庸も医者もしたが、本業と言うほどではない。
【参考文献】
『松阪市史』第9巻。
>>「眼鏡と入れ歯」
>>「塩崎宋恕」
>>「村田光庸」
>>『宝暦咄し』
>>「松坂」
>>「小泉見庵」
>>「大館高門」
>>「服部中庸」
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