midashi_p.gif 生洲

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 宣長が青春時代を過ごしたちょうど同じ頃、その京都の町ではやりだしたのが、「生洲」である。活作りの店である。

 『角川古語大辞典』に、「京都では、昔は後の生洲町(イケスマチ)にあったが、近世も後半には、四条当たりの鴨川、高瀬川のほとりに生簀を構えて、鯉鰻などの川魚の生料理を売る店が何軒もあった。「生洲は高瀬川をまへにあてたれば、夏はすゞし、柏屋、松源などはやる」『羇旅漫録、中』、「御料理、生洲、西石垣四条上ル、扇長」『京都買物独案内』」とある。
 『在京日記』には、宝暦6年(1756)11月、西石垣の池洲で貝焼きを食べたという記事が出ている。
 また、最晩年の、『享和元年上京日記』を見ると、池洲記事が三箇所に出てくる。享和元年(1801)4月7日「今日、池洲ニ遊」、同25日「帰路、二条川岸ナル生洲茶屋ニ休ミ物喰」、5月23日「帰路ほんと町生洲ヘ寄リ、支度シテ帰ル」。

 宣長の好みにあったのか、それとも多かったので利用しやすかったのだろうか。
 外食記事の乏しい宣長資料の中で、たいへん珍しい例である。



(C) 本居宣長記念館


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