midashi_o.gif エピキュリアン堀景山

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 味噌の味噌臭いのと学者の学者臭いのを嫌った景山は、平曲が得意だったようです。
 平曲とは琵琶に合わせて『平家物語』を語ること。起源ははっきりしませんが、平安時代からいた琵琶法師が、鎌倉時代になって『平家物語』を新曲として採用したことに始まるのではないかと思われます。『徒然草』によれば生仏という人が最初だそうです。

 宝暦6年1月9日の夜、宣長(27歳)は友人の山田孟明宅を訪れました。先客には、景山先生や横関斎も居ます。しばらくは高尚な話に打ち興じていましたが、やがて平曲が始まり酒が出てきて、賑やかな会となり、結局お開きは夜更けとなりました。
  『在京日記』には続いて次のような記述があります。

「そも堀先生は、もとより平家をよくし給ひけるが、横関斎、山田両人は、去年の春より心かけて学ばれけるが、いとうよく成て、冬の会にも出られける、やつがれ(私)もせうせう(少々)語らばやと思へば、かたはしならひ侍るが、いとむつかしき物也。古風成(る)物にて、いとう殊勝に聞え、おかしき物也、我もとより声音あしければ、三重などはつやつやあがるべうもなく、中音をすこしならひ侍る、になう(比較する物がないほど)おもしろき物也、琵琶のねはさら也」
と書き、その後に孟明が横関に贈った詩と、それに唱和した宣長の漢詩が載せられています。漢詩には、人の寝静まった夜更け、宣長が一人で苦労しながら声を張り上げ稽古する様子が描かれています。

 さて、この記述で気になるのは、「我もとより声音あしければ」です。宣長は本当に声が悪かった、あるいは音感がずれていた、音痴だったのでしょうか。  残念ながら不明です。
 ところで、宣長が「中音を少し習った、三重はとても」と言っていることについて少し説明します。
 平曲は、節無しの朗読である「白(シラ)声」と「引句」に分かれます。「引句」はさらに「口説」「初重」「中音」「三重」など9種となります。
 「三重」は音階も一番高く、曲折多く。秘伝書には「三重は鶴の晴天に舞うが如く澄み渡るように語るべし」とあるそうです。

【参考文献】
「平曲」沼沢竜雄・『岩波講座 日本文学』・昭和7年9月。


>>「堀景山」
>>「毎月の宣長さん」の「7月大好き人間「堀景山」」
>>「床の間の掛け軸」
>>『晋書』
>>『在京日記』



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