midashi_g.gif 江戸と松坂

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 現在、松阪から東京へは、最速で3時間だが、当時は普通に歩くと10日かかった。だが、今の松阪市民が持つ東京への親近感よりも、宣長の頃の松坂の人にとっての江戸への親近感の方が強かった。なんといっても、江戸の経済の一翼を担ったのが、この松坂の商人達である。江戸に店を持つ人が約50軒、その親戚縁者で働く人も含めると、ずいぶんたくさんいたはずだ。だから、江戸へ行く人、帰る人。ごく日常的に江戸が話題となっていた。

 豪商、例えば魚町の長谷川家では、月に3度の店の報告が松坂に送られてきていた。これは定期便である。また、急ぎの連絡は、5日もあれば充分届く。 「火事と喧嘩は江戸の花」なんていうが、宝暦10年(1760)2月6日、江戸で大火があった。その報せは、5日目の11日に松坂に伝わっている。
  宣長の『日記』には、

「(二月)十一日、去六日江戸大火事之由、今日相知、六日暮六時、神田旅篭町出火、紺屋町飛移、自夫石町、伝馬町、本町三丁目四町目、室町、堀留舟町、小船町、南北新堀辺不残焼、永代橋深川迄焼通、凡松坂店之分、八九分通此度焼失、其内土蔵等多焼失之由、殊外之大火也、同日七時、芝神明前亦失火、大成候由也、且又三日大火事有之候上也」(宣長全集・16-148)
とある。2月12日、叔父小津源四郎、手代彦兵衛江戸下向(『日録』)もその関係であろう。源四郎店は大伝馬町一丁目にあり、宣長も一年滞在したことがある。
 火事だけではない。例えば『冠辞考』も「江戸」で出版されたその直後に、宣長は「松坂」で見ているのだ。本の取次店は当時はない。江戸で買った人が松坂に持って帰ったのだ。

 情報の量やスピードでは現在の方が勝るけど、質では当時の松坂の方が上だったかもしれないよ。


>> 「松坂」
>> 「宣長さんの松坂評」
>> 「町の豊かさ」



(C) 本居宣長記念館


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