midashi_b 誰が真福寺本『古事記』を持ってきたのか?

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 宣長は、この『古事記』を、どうやって見たのだろう。

 通説では、真福寺本『古事記』調査の命が、尾張藩から藩士・稲葉通邦に下ったのは寛政9年7月とされている(『尾張名古屋の古代学』・名古屋市立博物館)。
 でも、宣長の証言では、天明6年に「写本」をするように藩命が下ったという。ここに11年の開きがある。
 恐らく、正式な調査命令の前に、事前調査として稲葉通邦あたりが写本を作り、宣長に内容についてコメントしてもらい、その後の藩命による正式調査が行われたと言うことではないだろうか。

 宣長が校合した天明7年、通邦はまだ宣長門ではないが、尾張徳川家の中では重臣・横井千秋などが宣長の『古事記伝』刊行に向けて尽力していた時期であり、通邦もそのことは熟知していたはずだ。あるいは千秋からの働きかけがあったかもしれない。
 
  宣長自身は、提供者について、何も言っていない。

【参考資料】
宣長手沢本『古事記』の奥書に、宣長による次の一文が貼り付けられる。


「右真福寺ハ尾張国愛智郡名古屋城下ニアリ。北野山真福寺宝生院ト号ス。俗ニ大須(オホス)観音ト云。真言宗也。往古在美濃国中島郡大栖ノ庄北野村ニアリシトゾ。サテ此寺ニ五百年前ノ写本ノ蔵書多シ。コレ根来ノ蔵書ヲ写セル也ト云伝フ。又、北畠氏ニ所以アリテ、伊勢神宮ノ蔵書ヲモ多ク写シ取テ蔵ス。古事記モ其内也トゾ。天明六年丙午年尾張殿ノ命ニテ右蔵書ヲ写セラルヽトキ、写手ノ人別ニ私ニ写シ取レルトコロノ本ヲ、此度借リ寄セテ全部校合スルモノ也。天明七年丁未四月十四日校合終業。本居宣長(花押)」

『古事記』宣長手沢本奥書

『古事記』宣長手沢本奥書



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