midashi_v.gif 『排蘆小船』(アシワケオブネ)

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 本居宣長著。恐らく処女作。内容は、和歌とは何かを問答体で書く。66項目から成り、歌は心のありのままを表出するものだとする実情論を根幹とし、和歌を政治や道徳から解放しようとする和歌自立論、因習にとらわれた中世歌学からの脱却を目指す伝授思想批判、そしてそのような学問を打ち立てた契沖への賛美が書かれ、宣長の処女作にふさわしい清新な内容である。

 ちょっと最初を読んでみよう。引用に当たって、漢字片仮名文を漢字平仮名文に改めた。

  「歌は天下の政道をたすくる道也、いたつらにもてあそび物と思ふべからず、この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかが。答曰、非也、歌の本体、政治をたすくるためにもあらず、身をおさむる為にもあらず、ただ心に思ふ事をいふより外なし、其内に政のたすけとなる歌もあるべし、身のいましめとなる歌もあるべし、又国家の害ともなるべし、身のわざわい共なるべし、みな其人の心により出来る歌によるべし」


 ところが、この本には署名もなければ、いつ書いたという奥書もない。そのため、過去には、これは堀景山の話を聞いて書いた本だという極端な論も出たことがある。

 今も、京都へ行って直後執筆説や在京執筆説、帰郷後説などさまざまである。私は帰郷直後説を考えている。歌会への加入する前に自説をまとめてみたのではないだろうか。構想は在京中にあったはずだ。だが京都時代は知識の吸収で精一杯で執筆には到らなかっただろう。また、「物のあわれ」との出会い後ならもっと「物のあわれ」が前面 に出てきても良さそうなものだ。だから宝暦7年(1757・28歳)年末執筆説を提唱する。
 それと、料紙がこの年の6月8日に写した『潅頂唯授一子之大事』と同じなのも傍証となるかもしれない。

 書名は、内題「あしわけをふね」とあるが、『万葉集』「湊入の葦別小船障多みわが思ふ君にあはぬ頃かも」と言う歌や、その後の歌集にも見える歌の言葉に依る。行く手には邪魔が多いと言うことだ。『蘆分船』という書名は大坂の地誌や浄瑠璃などでもよく使われている。
 
『排蘆小船』関係文献抄
「排蘆小船と宣長の歌論」佐佐木信綱(『賀茂真淵と本居宣長』大正6年4月)
※氏が松阪で『排蘆小船』を見たのは「丙辰の年八月」とあり、大正5年である。
【在京中説】
「石上私淑言以前に於ける宣長翁の国学−主として『排蘆小船』と『草庵集玉箒』に就て」佐藤盛雄(『国文学』第22二輯 昭和4年4月) 【帰郷後説】
「『あしわけをぶね』考」山本嘉将(『和歌文学研究』15号、昭和38年7月) 【堀景山説筆記】
「『排蘆小船』の成立に関する私見」岩田隆(『名古屋大学国語国文学』15号、昭和39年11月・『宣長学論攷』所収) 【帰郷後説】
「排蘆小船の成立」大久保正(『藤女子大学国文学雑誌』昭和46年3月) 【在京中説】
「『排蘆小船』は宝暦八・九年の作か」尾崎知光(『文学・語学』昭和47年9月) 【係結などの使用に
 よる帰郷後説】
「『あしわけをぶね』論−自己意識のゆくえ−」清水正之(『日本思想史学』13号、昭和56年9月) 【成立に触れず】
「『排蘆小船』述作の由来と成立」高橋俊和(『国語国文』60巻3号、平成3年3月・『本居宣長の歌学』) 【餞別詩文による
 帰郷後説】

 

『排蘆小船』

『排蘆小船』


>> 「安波礼弁」

>> 『石上私淑言』



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