13日の道中について宣長の記述はあまりにも簡単なので、大平の『餌袋日記』を引く。
「十三日、かくて、もとこし同じ道を、またかへらむよりは、まだ見ぬかたをこそとて、戒言大徳なンど、よべさだめられしまゝに、あかばね越とて、此里の右のかたへ、山路をゆく、この道いとさがしときけば、いそぐとも、とかくゆきやらじとて、いと夜ふかく立いでたるに、雨さへふり出て、いとわびし、石わりといふ山里を、すぎて、さがしき坂ども、のぼり行く、さて赤羽根といふ里より、田口といふ所を過て、桃の俣といふまで、三里ばかりもあらむ、このあひだ、こちごちしき、名ども付て、いひしらずいみじうくるしき、坂峠どもを、いくつといふかずもしらずこえぬ、そのほど花ども、おほく咲みだれたる、所々ありけり、猶のぼりたる山の手向に、山神と、ゑりたる石のたてる、かたはらに、いとことにおほきなる、さくら一本咲みちたり、
雨ふれば道いそがれてなかなかにえぞたちよらぬ花の下陰、 あはれてけ(天気)よからましかば、かくなほざりにやうちすぐべき、又山路を、のぼりくだり、菅野といふ宿に、しばしためらひてゆくほど、いとどいみじうふりいでて、道はぬまなンど、ゆかむやうに、足ふかくふみ入て、えもゆきやらぬを、ひたぶるに、杖をたのみて、さしおよぼし、ためらひつゝ行く、さかぢを、くだるほど、谷風はげしう、みのかさもとりはなつばかり、吹きいでゝ、雨もよこさまにふる、谷より立のぼる、雲霧のけしき、はたいとおそろしきにかろうじて、石手原(イシナハ
゛ラ)といふ里、見つけたるうれしうていそぎ付ぬ、けふはたげまでゆくべう思ひまうけて、こしかばまだ日は高し、おきつといふ里までだにと、供なるをのこはいへど、さらにさらに、足もうごかねば、雨もらぬ屋のあるを幸に思ひて、この里にやどりぬ、かのよこさま雨に、みのも、いたづらになりて、きたるかぎりの衣はひぢにひぢとほりて、さむくさへあれば、火をけに、炭おこさせて、みな人かしらさしつどへて、袖うちひろげあぶりほす、こゝは早いせの国なりければ、こよひは故郷もちかきこゝちす」
「雨もらぬ屋」とはひどい、と石川義夫氏は言う。石川氏の調査によれば、この日の宿は「中子九右衛門」宅であったと思われる。調査当時は、美杉村伊勢地出張所の少し先の反対側にあった中子家は老舗の旅館で、宣長が泊まったと思われる家は天明9年(1789)に消失したが、同じ規模で再建した家は、間口8間以上もある広大な屋敷であったようだ。
また、当主、光夫氏の話では、宣長が泊まったという言い伝えもあったそうだ。
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