midashi_v.gif 『赤穂義士伝』(アコウギシデン)

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 時は延享元年長月、今の暦では1744年10月の終わりから11月の始め、松坂の樹敬寺で江戸の説経僧・実道和尚により赤穂義士討ち入りの話が演じられた。宣長も早速に聞きに行き、目をつむって静かに座っていると、眠るくらいなら帰った方がよいと意地の悪いことを言うやつがいる。こんな手合いには何を言っても仕方がないので、家に帰ってから書きとどめておいた一巻を持参し、指し示すと、いやこれは参ったと相手は平身低頭したという。
 本居清造は、松阪魚町小学校に通っていた頃に校長野口坦から訓話としてこの話を聞き、後年、あながち虚坦ではないと書いている。
 宣長が示した一巻が、今も本居宣長記念館に伝わっている。本紙の寸法は縦が15.5センチ。長さが362センチ。
 最初の所に、執筆事情が記される。( >> 赤穂浪士と宣長
 宣長15歳。

 中根道幸氏は、「わたしは高校の国語教育で機器を使わぬころからの聞書指導もしてきたが、栄貞のこの聞書はかなりすぐれていると思う」と評価する。

「口演の口ぶりが栄貞のもつリズム(おそらくこの種の物は読みなれていたであろう)とかさなって生きている。記憶力と言うよりむしろ聞きとる力であろう。それにはや習慣化した筆記の能力が結びついている」(『宣長さん 伊勢人の仕事』和泉書院)
 中根氏は、この義士伝から、宣長における意味を考え出すが、一方、近世の舌耕文芸研究の立場からもこの宣長版赤穂義士伝は重視されている。舌耕は、演じたそばから消えていくものだけに記録は貴重である。しばらく前には英訳もされ、また最近発表された今岡謙太郎氏の「忠臣蔵と舌耕文芸」(服部幸雄編『仮名手本忠臣蔵を読む』吉川弘文館)にも、比較的詳しく論じられている。
 ちなみに今岡論文では挿絵に『御入部伽羅枕』をつかっているが、この物語のモデルは松阪市射和の豪商富山家。従って『松阪市史』文学編で『御入部伽羅枕』翻刻する。挿絵の中に彦八が出ている。これは初代だが、二代目彦八の芸は宣長も京都で楽しんだことはよく知られている。


>> 「宣長版赤穂義士伝」 の一節
>> 「赤穂浪士と宣長」



(C) 本居宣長記念館


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