midashi_v.gif 「安波礼弁」

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 「或人、予に問て曰く、俊成卿の歌に
  恋せずは 人は心も無らまし 物のあはれも 是よりぞしる
と申す此のアハレと云は、如何なる義に侍るやらん、物のあはれを知るが、即ち人の心のある也、物のあはれを知らぬが、即ち人の心のなきなれば、人の情のあるなしは、只物のあはれを知ると知らぬにて侍れば、此のアハレは、つねにただアハレとばかり心得ゐるままにては、せんなくや侍ん、
予心には解(サト)りたるやうに覚ゆれど、ふと答ふべき言なし、やや思ひめぐらせば、いよいよアハレと云言には、意味ふかきやうに思はれ、一言二言にて、たやすく対へらるべくもなければ、重ねて申すべしと答へぬ、さて其人のいにけるあとにて、よくよく思ひめぐらすに従ひて、いよいよアハレの言(コトハ゛)はたやすく思ふべき事にあらず、古き書又は古歌などにつかへるやうを、おろおろ思ひ見るに、大方其の義多くして、一かた二かたにつかふのみにあらず、さて彼れ是れ古き書ともを考へ見て、なをふかく按ずれば、大方歌道はアハレの一言より外に余義なし、神代より今に至り、末世無窮に及ぶまで、よみ出る所の和歌みな、アハレの一言に帰す、されば此道の極意をたづぬるに、又アハレの一言より外なし、伊勢源氏その外あらゆる物語までも、又その本意をたづぬれば、アハレの一言にてこれをおほふべし、孔子の詩三百一言以蔽之曰思無邪との玉へるも、今ここに思ひあはすれば、似たる事也、すべて和歌は、物のあわれを知るより出る事也、伊勢源氏等の物語みな、物のあはれを書のせて、人に物のあはれを知らしむるものと知るべし、是より外に義なし」

 これを執筆した前年、宝暦7年(1757・宣長28歳)10月、宣長は京都より帰り医者を開業した。年改まって宝暦8年(1758)1月、『古今選』編集開始した。2月11日には嶺松院歌会に参加。4月28日『論語』再読か。そして5月3日『安波礼弁』起稿する。

 宣長の内の、大きな流れが見えてくる。
 京都時代からの課題であった、歌とは何か、なぜ人は歌を詠むのかを考え続ける宣長は、まず『二十一代集』を始めとする日本の古典和歌を通覧し、『古今選』というアンソロジーを編む。また松坂の歌人との交友を始めるが、そこで「物のあわれ」という言葉と出会う。歌とは孔子における『詩経』のようなものではないか、そこで『論語』を再読し、自らの考えをまとめる。それが「安波礼弁」である。
 この言葉と出会った宣長は、古典の秘密を解く鍵を貰ったように嬉しかっただろう。だが、この時期に書いたと思われる『排蘆小船』には余り出てこない。どうしてだろう。


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