◇オーロラを見た宣長
明和7年(1770)7月28日夜、宣長は不思議なものを見た。
当日の『日記』には、
「廿八日、今夜北方有赤気、始四時頃如見甚遠方火事、
其後九時頃至而、赤気甚大高而、
其中多有白筋立登、其筋或消或現、
其赤気漸広而、後及東西上及半天、至八時頃消矣、
右之変諸国一同之由後日聞」(宣長全集16-318)
とある。
今夜、北の空が赤くなっていた。10時頃は遠くの火事のように見えたが、
深夜零時には赤みがものすごく大きくなり
その中に白い筋が立ち上り、現れたり消えたり、
やがて赤気は広がり、後には東から西の半分まで覆い尽くした。
午前2時頃、消えていった・・・・
変事は各地で見えたそうだ
この変異は宣長も言うように全国的なもので、
江戸のことを記した『武江年表』には、
「七月二十八日、夜乾の空赤き事丹の如し。又、幡雲出る」とあり、
『想山著聞奇集』によれば長崎でも見えた。
また、神田茂『日本天文気象史料』によれば京都でも見えたそうで図が載る。
現在ではオーロラではないかとされている。
(「気候からみた江戸時代」西岡秀雄『図説日本文化の歴史』第9巻月報所載)。
昔の人はよく空を見ていた。
宣長さんも熱心に見ている。
こんな不思議を目の当たりにして、
宣長さんは、世の中は不思議が多いと思ったのだろうか。
でも諸国の情報も集めている。
このほかに、怪異星も見たし、また名月八月十五夜の月食も体験した。
『天文図説』は自分知識の限界まで考えた一つの成果だ。
知を信じる人は、知の限界を知る人でもあった。
皆さんも、夕涼みをかねて夜空を眺めてみませんか。
何か、見えるかもしれませんよ。
「『星解』に載った明和7年7月のオーロラ」
>> 「不思議」
>> 「明和7年のオーロラ」
>> 「村井古巖」
◇7月はどうしてふみづきか?
昔の暦では、文月7月は、もう秋です。暑さも残暑となります。
7月はフミヅキ、またフヅキと呼びます。6月はミナヅキですね。
6月が水無しで、7月が文なのだろうと考えた事はありませんか。
宣長さんも疑問に思い、いろいろ考えたようです。
『古事記伝』巻30で、
「賀茂真淵先生の説では、七月(フミヅキ)は穂含月(ホフフミヅキ)、で、八月(ハヅキ)は穂発月(ホハリヅキ)、九月(ナガツキ)は稲刈月(イナカリヅキ)だとおっしゃったのは納得できる説である。だが、その他の月はどうなるのだろう。実は私もいろいろ考えたのだが、12ヶ月全部はまだ説明できないので今は言わない。また考えがまとまったら公表しようと思う。」
と書いていますが、残念ながらその後の著作ではこの問題に触れていません。
うまく説明がつかなかったのでしょうか。
◇災い転じて・・
宣長さん52歳の時ですが、残暑厳しいこの季節、瘧という病気に罹ります。
瘧(おこり)はマラリア性の熱病で、わらわやみとも言います。光源氏が罹って療養中に若紫を見つけたという、あの病気です。このため、宣長さんは講釈や質疑応答などを以後一年半にわたって休止します。
でも、この病気に罹って本当に調子の悪かった頃、宣長さんは面白い仕事を残しています。
天文暦学研究と、書斎「鈴屋」の増築です。
7月15日頃発病した宣長さんは、やや快復傾向にあった8月17日『天文図説』を執筆します。
本書は、西洋の天文学などを援用し、日月の運行を図解した本。「朔月之図」、「上弦月之図」など8種10図をコンパスで描き、解説を加える。執筆のきっかけは、書く3日前、つまり8月15日、十五夜に月食があったためかもしれません。
また、翌月には『真暦考』も出来ています。暦が伝ってくる前のことを考察した本です。
体調優れない時期に、気分転換に天文や暦学と言った本を書いたのかもしれません。
『古事記伝』執筆や質疑応答のような一々原点を確認したりと集中を要する仕事に比べれば、宣長さんほどの学識が有れば天井を見ながらでも構想は練れたのでしょう。
10月8日には、2階の増築に着手しています。12月上旬竣工。書斎鈴屋です。下世話な推測ですが、この前年、前々年と年間医療収入が90両と、記録に残る限り最高額を記録したのも、増築に踏み切った一要因かもしれません。
この変な病気も、超多忙な宣長さんには、よき休息期間となったようです。
>>
「毎月の宣長さん」6月
>>
「毎月の宣長さん」7月
|