しめ縄 本居宣長記念館
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今月の宣長さん
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十二月の宣長



◇12月

 宝暦13年(1763)12月16日、江戸の賀茂真淵は、宣長宛書簡を執筆。同年5月25日に新上屋で対面し、6月には最初の書簡と質問状が真淵宛に送られた。それから半年、やっとこの日、入門手続きの仕方を記した書簡が書かれ、質問への回答を同封し宣長に向けて送られた。松坂到着は、恐らく正月であろう。宣長にはすばらしいお年玉となったはずだ。
 12月には、この他にも宣長の元服(15歳)、書斎鈴屋の竣工(53歳)、紀州徳川家仕官(63歳)と大きな出来事があった。
 さて師走に入ると、門人などから「寒中見舞い」が届く。寛政11年(1800・宣長70歳)の見舞いの品を見てみると、鯛が7軒と一番多い。また、みりん酒、そばきり、卵などいろいろ。寒の入りの前12月12日には出雲特産「十六島海苔」が届いた。

>> 「十六島海苔」

 また、すす払い(大掃除)や餅つきと何かと忙しい。出入りの大工・八郎兵衛からは鏡餅を飾る折敷や、しめ縄に付ける「蘇民将来」の札が届く。このように迎春の準備は着々と進む。
 この月は一年の締めくくり。本居家の家計は、当時の慣例に従って、盆と暮れに集計をする。盆は7月14日までが前期「春」で、大晦日が「盆後」となる。大晦日にはそろばんを片手に計算したのだろうか。

鈴屋図


 これは、享和元年(1801)、熊本の帆足長秋、京親子が松坂を訪れたシーン。
 彼らが鈴屋に到着したのは夏の真っ盛り6月の下旬。玄関に注目していただきたい。しめ縄が掛かっている。このように伊勢地方では、今も一年中、しめ縄が飾られる。また松阪などではしめ縄の上には、「蘇民将来子孫之家」という札が付く。これが伊勢市では「笑門」と地域差もある。

>> 「蘇民将来」(ソミン・ショウライ)
 



◇こたつの歌

 宣長に「こたつ」を詠んだ歌があります。
 前後の文章も一緒に見てみましょう。

「しはす(師走)ばかり、これかれあつまりて、埋火を題にて、歌よみける日、今の世のこたつといふ物をよめと、人のい(言)ひければ、
 むしぶすま なごやが下の うづみ火に あしさしのべて ぬらくるよしも
とよめりければ、みな人わらひてやみぬ」
                『玉勝間』巻3「こたつといふ物のうた」
 師走のある日、何人か集まって「埋み火」の題で歌を詠んでいたところ、今の「こたつ」でも歌が詠めますかと言うので、宣長が一首詠んだら、なるほど上手いものだと笑って次の話題に移っていった、と言う情景でしょうか。
 歌を聞いて、一座の人がすぐに思い浮かべた、あるいは訳知り顔に、「これはねえ」と誰かが言ったかもしれないのは、
『万葉集』巻4、534番
「蒸し衾(ふすま) なごやが下に 臥せれども 妹とし 寝ねば 肌し寒しも」(ほかほかの柔らかな布団にくるまってみたけれど、あなたと一緒じゃないから肌が冷たいよ)

というちょっとエロチックな歌でした。
 「蒸しぶすま」は柔らかい布団、「なごやが下」は柔らかい物の下。それを上手く「こたつ」に転じ、また添い寝を連想させる「ぬ(寝)らく」に持って行く。なかなか上手だと思いますが、いかがですか。
 それはともかく、このような、それこそこたつに足を突っ込みながら語り合う和気藹々とした知的な雰囲気、こんな時間を宣長や当時の松坂の旦那衆は共有していたのです。これが「円居(まどい)」です。
 『古事記伝』執筆が全部終わったときの祝賀会を、「古事記伝かきおへぬるよろこびの円居して」と書いていますが、「円居」とは、文字通り丸くなって座ること。仲間同志での集まることです。

「古事記伝終業慶賀の詠」
「古事記伝終業慶賀の詠」

 宣長の学者としての活動は、宝暦8年(1758)嶺松院歌会から始まり、やがてそのメンバーへの『源氏物語』講釈へと展開していくことはよく知られています。講釈を「円居」といっては拡大解釈が過ぎるかもしれませんが、後の雑談(『講後談』)や、歌会、その延長にある月見に花見、紅葉狩りといったエクスカーションは立派な「円居」です。
 宣長一門の「円居」風景を描いたのが、「鈴屋円居の図」です。
 まさに「円居」は宣長学の揺籃(ゆりかご)でした。しかし、やがて親しかった友人が去り、世代は代わり、また諸国の人が円居に入ってきます。ただのメンバー交代ではなく変質していくのです。宣長学は重大な転機を迎えるのです。
 
>> 「講釈」
>> 「鈴屋円居の図」
>> 「何が描かれているのかな」
 



◇国学者と漂流譚

 天明2年(1782)12月13日巳の刻(太陽暦1783年1月15日午前10時頃)、伊勢国白子港(三重県鈴鹿市)を一艘の舟が出帆した。船の名前は「神昌丸」。船主は一見諫右衛門。乗船者は沖船頭大黒屋光太夫以下17名と、猫1匹。積み荷は紀州藩の蔵米と、松坂魚町の丹波屋長谷川治郎兵衛の商品など。長い旅の始まりとなった。
 12月14日深夜零時過ぎ駿河湾沖合にて大西風により難破。神昌丸は太平洋を漂流。
7月20日アレウト列島に漂着。その後、光太夫らはロシア皇帝エカチェリーナ二世に謁見、帰国を嘆願し、日本に帰ったのは寛政4年(1792)であった。

 この漂流譚は小説、そして映画にもなり、つい先だって「大黒屋光太夫記念館」も開館したが、実は宣長とも糸筋程度だが関係がある。
 まず、船主の一見は、門人・一見直樹の本家筋にあたる。
 次に、積み荷の所有者は向かいの長谷川家であった。
 もう一つは、光太夫に白子で聞き取り調査を行ったのが門人・服部中庸であった。

 帰国は果たしたものの、幕府の監視下に置かれた光太夫らが、ようやく故郷に帰ることができたのは享和2年(1802)のことであった。
 その時、光太夫を迎えたのが一見諫右衛門とその叔父・直樹。おそらくその直樹の紹介であろう、紀州藩松坂城代与力・服部中庸も同席し、『一席夜話』を残した(山下恒夫編『大黒屋光太夫史料集』第4巻)。
 中庸は藩の役人として、いわば公務で光太夫に面接したのではないと思うが、といって単なる好奇心だけでもなかったのかもしれない。

 小倉藩の国学者・西田直養(なおかい)は、文政9年9月3日、小倉の本陣大坂屋良助で、南海パラオ諸島から帰国した漂流者と対面して聞き取り調査を行い、『ペラホ物語』を書いた。本書は「すぐれたパラオ民族誌」と評価される。
 亀井森氏は、直養の漂流民への関心の根底に、国学者のまなざし、もっと端的に言えば、古代を具現化するもの、さらには民俗学的な関心をみる(「ある国学者のまなざし−西田直養の二つの視点−」『国文学解釈と鑑賞』2005年8月号)。

 つまり、国学の中には漂流民、そしてその流れ着いた先への関心へとつながるものがあったということだろうか。

 宣長の場合、30歳頃に、『今昔物語』から鎮西人が度羅島に至る奇談を書き抜き、また「唐国南京舶漂著安房国千倉記」を写すなど、日本に漂着した人に対して一応の関心は持つ。『玉勝間』「石見の海なる高島」は漂流譚ではないが、未知の世界という点では共通する。

 民俗学的な関心もある。

 養子の本居大平も同じだ。宣長に付き添って和歌山に滞在していた寛政13年1月27日には、有田郡塩津浦に漂着した唐船見物に出かけている(この時は、宣長は行かなかった)。
 また、文化10年(1813)、尾張国の督乗丸が難破して484日間漂流するという事件があったが、この時の聞き取りである池田寛親『船長日記』には、中山美石(大平門人)の跋文と、大平の長歌が添えられている。(春名徹『世界を見てしまった男たち 江戸の異郷体験』ちくま文庫)

 日本人は物見高いし、好奇心が旺盛だからね、だけでは済まないのかもしれない。きっと平田篤胤をはじめとする宣長以降の国学者の民俗や異境への関心とも関わってくるのだろう。だがその代償として、注釈に代表される古典研究からは離れていくことになる。

 しかし、先の服部と西田の話をあまり大きな声で言いたくないのは、『一席夜話』も、亀井さんの紹介分しか見ていないが『ペラホ物語』でも、下ネタに目が行ってしまうからだ。
柳田国男ではないが、この手の話になると学問がとたんにうさんくさく聞こえてくる。
 



◇赤穂浪士と宣長

 宣長は延享元年9月 (1744年・15歳)、『赤穂義士伝』を著した。これは、樹敬寺における実道和尚の説経の聞書である。巻首には、

「予、延享元年九月の比より、樹敬寺ニて実道和尚説法ノ次ニ、播州あこノ城主浅野内匠頭長□(ノリ)の家臣、大いしくらの介藤原のよしを巳下ノ家臣、主ノ敵を討シ物語をせられしを、我カ愚耳ニきゝしとをリヲ書キシルシをく也、しかれども、聞わすれし所も有りければ、次第ふつゝにして定らず、又ハをちたる所も有べし、わすれし所も有り、然レ共先ツ記ス、凡ソ此事をしるしたるもの、廿余とをり有りとかや、此レハ大石ノしゆかんと云書を以て説といわれたり」
とある。聞いてきたことをそのまま書いた。なにぶん記憶したことだけに忘れたりして首尾一貫しないし、聞き漏らしや誤りもあるかもしれないというのだ。それにしても全長362センチに細字で記され、記憶力のすばらしさには驚くばかり。内容は、実録の義士伝物の流れに属するとのこと。全文は『本居宣長全集』第20巻に載る。
 これ以後の宣長と赤穂義士を少々記す。
 京都遊学中の宝暦6年(1756・27歳)5月23日、堀蘭澤と清閑寺に参詣したそこで江戸・泉岳寺の出開帳として四十七士の遺物や泉岳寺墓の模造が並べてあったので拝観料5文を出し見物している。
 宣長の書籍目録『経籍』には、「赤穂忠臣ノ事ヲ記ス書ドモ也」として関連書が載る(宣長全集:20-624)。また宣長の師の堀景山は『不尽言』で義士論を展開している。当然、宣長も読んだはずだ。
 



◇『秘本玉くしげ』

 天明7年(1787・58歳)12月、門人で紀州御勘定方役人(服部中庸か)の勧めで、藩政改革の提案書『玉くしげ』を執筆。紀州藩主・徳川治貞に奉った。後に、本書は『秘本玉くしげ』として刊行された。

>> 『玉くしげ』
 



◇離婚


 12月には悲しいこともあった。みかとの離婚である。詳しい事情は分からない。宣
長31歳のことである。

>> 「結婚」




◇松坂の師走風景

 宣長門人・服部中庸の『松坂風俗記』には、1800年代初頭の松坂の風俗が詳しく記録されています。
 当時の師走風景を見てみることにしましょう。

 12月8日、「猫も三文」の日で、各家では豆腐を焼田楽として食べる。
 最近は豆腐を食べればよいのだからと湯豆腐や煮染めにすることも多い。
 夜まで豆腐売りの声が聞こえる。一緒に蒟蒻を買う家もある。
 (大平の実家は豆腐屋。さぞ忙しかったことであろう)

 >> 「豆腐」

 13日、正月ことはじめとして煤払いが行われる。
 これは江戸店持ち商人が向こうから持ち込んだ風習である。
 (宣長の家でも15日位までに行われます)

 >> 「煤払い」
 
 寒の入り頃に「寒気見舞」をする。暑中見舞いと同じ。
 
 20日頃、餅つきが行われる。最期に主人が「臼魂」を行う。餅花は子どもが作ることが多い。(宣長の家の餅つきは26日頃)
 
 この頃、親類や先生、世話になっている医者になとへ祝儀を贈る(お歳暮)。
 
 正月の注連縄(七五三縄)を作る。家によって作り方が変わる。
 27日から28日朝まで「松市」が、本町三井伊豆蔵の辻や新町の蓬来の辻である。
 「銭壱文」の事を「壱〆」と言う。飾り付けのユズリハ、竹シダ、椎柴なども一所に売る。
 
 28日から晦日まで門飾。飾り方も家によって違う。
 
 子どもの遊びは、ぎっちょう、破魔弓、手まり、羽子板。
 
 旧暦なので、12月中に立春(節分)が来ることがある。その夜は豆まきを行う。
 神社に参詣し、また岡寺など観音にも参る。
 
 正月のお供え「年徳棚」や「疱瘡神の棚」(除夜のみ)を飾る。

 >> 「大晦日鏡供え」

 大晦日の夜は、各家に挨拶回りをする。また年始客用の重組(おせち料理)を用意する。
 中は、数の子、牛蒡、煎って醤油をかけたごまめ、
 その他にニンジンの青のりまぶしや坐禅豆、くき漬、キンピラ牛房など色々家によって大同小異。
 また雑煮の用意をする。医者の家からは患者の家に屠蘇(トソ)を贈る。(宣長も贈ったのだろうか)



>> 「毎月の宣長さん」11月
>> 「毎月の宣長さん」12月


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